memory of cross

プロローグ/ヘレン

「ヘレン！私が帰るまでにやっておけと言ったはずよっ！？」
「……！！」
　ヘレンは姉に竹箒で背を打たれながら涙を流す。
「……！？……！！」
　しかし彼女が反抗する事はない。いや、正確には出来ないのだ。なぜならば彼女は生れつき耳が聞こえなかった。

飾り物の耳をぶら下げて生れた彼女に両親は酷く落胆し、彼女を煙たがった。ヘレンは姉妹の妹だったが姉の対応もまた酷いもので、先の様な事は日常茶飯事、姉にとって彼女は意思の疎通がとれない気味の悪い存在でしかなく、そう思っている存在が自分と血を別けている事が許せなかった。なぜならばそれを認めることは医師や家族、誰が否定しても彼女の中にヘレンと同じことが自分にも起こり得るという恐怖、他者とは違うかもしれない自分を強く印象づけてしまうからだ。今朝も彼女はヘレンに洗濯物を投げつけると聞こえないと知りながら言うのだ。
「私が帰るまでに洗濯して。出来なかったら今日も叩くわ」

　彼女の不遇はそれだけにとどまらない。聞こえない事は話せない事。話せない事は家族にすら理解されない事なのだから、そんな彼女の町での生活など分かり切ったものだ。町の人間は彼女と目を合わせない。同種であると認めない。だから彼女は常に一人だった。
一人で、誰とも話さず、生きていた。だから、彼女には常識がなかった。裸足で外出してはいけない事を知らないし、暗い路地裏に入っては危ない事も教えられていなかった。私と彼女の出会いはそんな危険な路地裏で起きた。