第1章

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 麦の別れと父  「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 松尾芭蕉の句碑が京急線八丁畷に在る。 これは芭蕉が門人達と別れたときの句。 芭蕉が関東で残した最後の一句となったそうである。  仙台市内に住んでいた高齢の両親は5年前、東日本 大震災で被災した。 川崎に住んでいた私は、両親に仙台の家を処分させて 川崎市に呼び寄せた。 同居するには手狭だったので、川崎駅近くにマンションを 購入し転居した。 わが子の傍に住むことになって喜ぶ両親を私は想像して いたのだが、母親はいつまでも転居を決めたことを悔いて いるような口ぶりだった。 以前から認知症を患っていた父は無反応だったが、今は 仮住まいでいずれは仙台に帰るものと思い込んでいた様子 で、頻繁に母親に「早く帰ろうよ」と言い始めた。 高齢になると、故郷は捨てがたい場所になるらしい。 転居後しばらくすると 次第に父親の症状が顕著になって いった。 ある時からついに徘徊をするようになった。 決まって夕方暗くなる少し前だ。 私も母親ももっとも恐れていた症状である。 最初はマンンションから表の国道に出て、行き交う車を しばらく眺めてすぐに戻ってきた。 母親は扉を開けると音がなるように風鈴を取り付けた。 そのため、音がすると母親は飛び出して父親をつかまえ て連れ戻していた。 しかし父も考える。 いつの間にか風鈴をガムテープでとめて音がしないよう にしていた。 次には 名前と住所と電話番号を書いた名札を父の首から 下げさせるようにした。 家を出るときは必ず上着を羽織り、帽子をかぶって杖を持って 靴を履いていたものが、徐々に室内にいる格好のままサン ダル履きで出るようになった。 これも母親を欺く作戦だったのかもしれない。 その度母親は父親を連れ戻して、外出の格好をさせて、 一緒に散歩するようにした。 時には私も一緒に散歩した。 すると父親の気が済むようで、その後はおとなしく部屋に とどまるようになった。 しかし、これも一時的なもの。 母親の足も衰えて、父親はいつの間にか居なくなることが しばしばだった。 ついには父親に携帯の発信機を持たせるようにした。 ある日父親はトイレに立つふりをして家を出ていった。 しかも発信機を家に置いたまま。 母親は周辺を探しまわったが見つからない。 次第に当りは暗くなる。 母親は私に電話をよこした。 私はちょうど仕事が終わった後で、すぐに両親宅に駆けつ
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