第一章 魔法みたいな

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第一章 魔法みたいな

 その日、いつもの通り――だけどその家では最後となる――高二英語と国語の家庭教師のバイトを終え、今月の家庭教師代を受け取ると、菜々はトボトボと駅に向かって歩き始めた。 (また家庭教師派遣センターに頼んで、派遣先を探してもらわないと……。それとも、個別指導塾のコマを増やしてもらおうかな……)  家庭教師は時給がいいので、できるならそちらを増やしたいけれど、中学や高校が期末試験直前の今、次の家庭教師先はそう簡単には見つからないかもしれない。それなら時給にこだわらず、深夜や早朝に働けるコンビニのアルバイトに応募した方がいいのかも……。  菜々はため息をついて立ち止まった。雨に洗われたばかりの七月上旬の夜空はきれいに澄み渡っていて、濃紺の空にふっくらした半月がぽっかりと浮かんでいる。 「オムライスみたい……あーあ、お腹空いたな……」  ため息をついて、人通りのほとんどない雨上がりの通りをまた歩き始めたが、バイトを一つ失ったショックと空腹が重なって、どうしても歩みは遅くなる。けれど、歩く速度が遅いと、いつもは目にとまらないものが目に入るようだ。 (こんなところにバーなんてあったっけ?)  誰もいない小さな公園のはす向かいに、ダークブラウンの外壁がおしゃれな五階建てのマンションがある。その店はその一階にあった。淡いオレンジ色のライトが照らす黒板に、白いペンキの文字でBAR CENDRILLONと書かれている。 (サンドリヨンってフランス語でシンデレラってことだよね……)  菜々は引き寄せられるように横断歩道を渡って、そのバーの前で立ち止まった。ショルダーバッグの中に手を入れ、もらったばかりの薄い茶封筒を握りしめる。中に入っているのは今月のバイト代だ。貴重な生活費。でも、いきなり今日、という何の心構えもできないうちに突然クビを切られたこのやり場のない気持ちを晴らしたい。 (コンビニで缶カクテルを買うと、二百円でお釣りが来る。でも、こういうお店だと絶対に一杯五百円以上はするよね。それにチャージ料だって取られるだろうし……)  節約しなくちゃ、という気持ちと、ぱーっと使ってすっきりしちゃえ、という気持ちが葛藤する。 (一晩……ううん、一時間でもいい。安アパートでの貧乏生活を忘れて、優雅な気持ちに浸りたい……)
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