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「はい、どちら様?」
おっとりした柔らかい声に、これを求めていたのだと期待が高まる。知らず、弾んだ声音になっていた。
「俺だよ! 分かるだろ?」
「ああ、貴方……貴方なのね……」
「そう、俺──」
「もう一度声を聞きたかったの。あの後ね、旦那とは別れたのよ。私はもう自由の身なの。だから会えるわよね?」
どうやら、不倫相手? と勘違いしているらしい。声は間違いなくお年寄りの女性のものだ。対して、自分の声はまだ若い。何年前の別れだったのか疑問があるものの、これなら騙せるかもしれない。
「ああ、会えるよ。だから、交通費を……」
「いいえ、元はといえば私から好きになったんだもの、私から会いに行くわ。電話をくれたって事は私をまだ愛してくれているのよね? 今から貴方の部屋に行くわ。玄関の鍵を開けておいてちょうだい。もう二度と離れないわ……命が尽きる時も一緒よ……一緒に地獄へ堕ちましょうね……ああ、幸せ……ピンクのドンペリを美味しそうに呑み干していた貴方の顔が浮かぶわ。今度こそ身も心も結ばれるのね……貴方はいつも上手いことを言ってごまかしていたけれど、本当は私を欲しいと思っていてくれたのね……」
「──!」
背筋に冷たいものが走って、とっさに電話を切ってしまった。うっとりとした声が、粘りながら絡みついてくるようで恐ろしかった。非通知でかけておいてよかった。番号を通知していたら、間違いなく追いつめられていたと思う。
それにしても、なぜこんなに手強いお年寄りばかりなのか。電話を前に考え込み、そこで、自分の息子設定が甘いことに気がついた。柔軟な対応も必要なのだ。
あと一度、頑張ってみよう。
そう決めて、電話帳を無作為に開いたページの目についた番号をプッシュしてみた。
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