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ハァーッ。ハァーッ。
息がうまく吸えない。血管の中で肴が跳ねまわっているみたいに、手の甲や肋骨のあたりがビクビクと痺れる。
「久松先生」
ためらいがちに、袴木が碧を呼ぶ。碧は両手で口を抑えて、呼吸が止まるのを待った。
涙が両手を濡らしていく。だめだ、ぜんぜん落ち着かない。
「お願いします」
涙と息切れの合間に、袴木を見上げた。
「今日で、私教師をやめます。ここからいなくなります。だから、お願いですから、彼とのこと、誰にも言わないでください」
碧を守ろうとした華奢な後ろ姿を忘れない。
あの背中を守るためなら、なんでもできると思った。
指導教員が目を見開く。
「久松せ」
「お願いしますっ」
今度は碧が両手を床につけた。許してくれるまで、うんと言ってくれるまで、一生やれる気がした。
どのくらいそうしていただろう。やがて、はぁーっと大きく息を吐く声がした。
「辞めるんですか」
静かな声だった。
ちがう学校に就職した教員仲間から、指導教員の愚痴をよく聞く。新人教師にとって、担当の指導教員がどんな人なのかでその後の学校生活がかなり左右される。
袴木は良い先輩だった。何度も叱られて、何度も助けられた。
生徒とね、あんまり仲良くなりすぎてはいけませんよ。あと体罰もダメね、ぜったい。
「このご時世ね、先生も生徒と同じように、アレだめコレだめって規制が多いんだけどね」
緊張していた初日、袴木は、自分の机の前で緊張して佇む碧を見上げて笑って言った。
「いい教師になりなさい」
おさまりかけていた涙がまた頬を流れ落ちる。
ごめんなさい。いい教師になれなくて、ごめんなさい。
「はい、やめます」
笑え、と自分に強く念じた。頬は引きつって、それは笑みとは言えないようなものだったけど、
「私の持っているものであの子が守れるなら、悔いはありません」
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