672人が本棚に入れています
本棚に追加
/188ページ
長谷じゃない、もう一人の採用担当者が下を向いて肩を震わせている。さっきから一度もしゃべってないから、存在を忘れかけていた。
そのひとが、下を向いたまま握りこぶしを口元にあてている。長い前髪が表情を隠しているけれど、これはどう見ても。
「…………え?」
おもわず真顔になる。なんでこの状況で、笑ってるの? このひと。
「おい」
長谷が慌てて諌める。
「いや」
そのひとが、初めて口を開いた。
「すっげ、心こもってねぇなーって思って」
「…………は」
聞き間違いかと思った。
クックックッ。
その人は笑いながら背筋を伸ばした。長い前髪をかき上げる。
「あんた、相変わらずうそつきだな」
は、という言葉が口の中で止まる。前髪の向こうから、意外なほど大きな目がこちらを見つめていた。とてもまっすぐに。
どくん、と鼓動がひとつ鳴った。記憶のフィルムが再生されて、ある人物で止まる。
――碧。
声を聞いた気がして、くらりと眩暈を覚える。
いや、まさか。
「おい、なんてこと言うんだ」
長谷が焦った顔でその人と私を交互に見る。
「紹介遅れてすみません。彼、募集かけてるコンテンツサービス事業部のリーダーなんですが、失礼なこと言って本当に申し訳ないです」
いえ、と口の中で答える声はかすれていた。長谷の横で、そのひとはじっと碧を見ている。
背中を汗がつたう。
ちがう、ちがう。
そんなわけ。
「遠野と言います。はじめまして」
そのひとは、碧を見て笑みを浮かべた。
「このたびは、弊社にご応募いただきありがとうございます」
頭の中が真っ白になった。
――うそ――。
先生。
あんたが好きなんだ、先生。
笑顔が甘いお菓子のようだった。Let it Beを聞きながら、小生意気な表情で笑う。
暁。
八年前に別れた恋人で――教え子の、遠野暁が碧を見つめていた。
最初のコメントを投稿しよう!