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数日後。
碧は携帯を片手に部屋のベッドに横になっていた。目の前のディスプレイには「母」の文字。
おそるおそる文字をタップすると、画面が接続中に切り替わった。心臓がどくどくと騒ぐ。
「もしもし」
通話口から、懐かしい声が聞こえた。ふっと頬が緩む。
「母さん?」
「久しぶりじゃんね。どうしたん?」
故郷のなまりを聞きながら、ごろんと横向きに丸まる。
「うん、あのねぇ」
私そっち帰ろうと思うじゃん。言いたいのに、言葉が喉の奥で止まる。
「みんな元気にしとる?」
沈黙を埋めるためにそう尋ねると、母は笑った。
「父さんも母さんも元気よぉ。東京は暑いだらぁ。先生も大変じゃんねぇ」
母には予備校の講師を辞めたことを言ってない。どしてん? と理由を聞かれても、答えたくないから。というか、答えられないから。
なんか、そんなことばっかりだな、と思う。
「ど暑いよぉ毎日。そっち帰りたいだもん」
冗談ぽく言ってみると、母もそうだらぁ、と笑う。
「夏休みあるんだら? 帰ってこりんよ。お盆にはショウちゃんとこの子も遊びに来る言うてるし」
いや毎日夏休みなんだよ、とは言えない。当たり障りのない会話をしてると、壁の隅に掛けたハンガーに吊るされたスーツが目に留まった。真っ黒のパンツスーツ。この間の面接に着ていたやつ。
きゅ、と唇を噛みしめる。なにしてるんだろう、私。
「母さん? ごめんね、私これからテストの採点せにゃあかんから、もう切るでね」
「そうなん? あんまり無理せんでね。たまには休みんよ」
うん、と小声で答えて携帯を切る。
携帯を握ったままぱたん、とベッドに仰向けになる。母の笑い声が耳の奥に残っていた。
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