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「――――」
真っ白。言葉が頭に浮かばない。
なに、これ。
暁の片手が頬をなでる。ビクッと身を引こうとしたら、もう片方の手で抑え付けられた。おおきい手、と思って、直後ようやく意識が覚醒した。
パンッ。
体罰は懲戒。指導教員に言われた言葉だ。
今の時代、どんなことが起きても叩いたら負けだからね。ぜったいに手を出しちゃだめだよ。
そんな言葉が機械的に頭をめぐったけど、高鳴る胸の音にかき消された。掌が赤くなって震えている。渾身の平手打ち。学生時代に付き合っていた彼氏に浮気されて以来の。だけど威嚇できたのは一瞬で、暁は頬を抑えながらふたたび顔を近づけてきた。
「ちょっと……やめて!」
マンガだったら今ので逃げるのに! 現実は、女性が放った一撃くらいじゃ男に敵わないと思い知る。
男。そうだ。
彼は、遠野暁は男なんだ。自分とはちがう性をもつ、おとこ。
ドクンと鼓動がひとつ鳴る。開けてはならない箱を開いてしまったような気分だった。未成年とか生徒とか、不可侵な気もちにさせる外側の部分がごっそり剥がれて、暁というひとりの人間と向かい合っている気がした。
そんな風に思うべきじゃなかった。せめて目を、合わせなければよかった。
でも、碧は見てしまった。自分を見つめるその目を覗き込んでしまった。
黒くて形のきれいな目。
そのなかに、碧が映ってる。自分自身と目が合った。赤い頬。潤む目。動揺して、とまどって、それと、あと。
先生の仮面がとれて、女の顔をしている自分がいた。
なにこれ。
暁が頬に落ちる髪を両耳にかける。肩が大きく揺れた。
「さわん、ないっ」
「好きだ」
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