伝統

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「自分でも不思議なんだけど、行きたくてたまらないんだ。リーダーが震えてるの見てたら、もう出発するんだなって感じて。そしたら、どうしても長旅に行きたくなってしまって。 どうしても。止められなくて。自分が」 「だから、どうして…」 「どうしてじゃねえよ、理屈じゃねぇわ、本能みたいなもんだろ。伝統がどうのってレベルの話でもない。お前こそなんで平然としてられるんだよ。やっぱお前なんかおかしいわ」 「…………」 「あーっ、あっあっあっ。全身が熱くなってきた。胸もドキドキして…。お、俺行く。おっ、俺、行っくわっ。あっああっ、まともにしゃべれ、ねえわ。じゃあな、こ、今年の秋にまた会おうぜ。親友」 岩陰から飛び出し逃げゆく子供たちの頭の上を、何本もの白い矢が春の空にむかってはなたれた。 白い矢達は、やがて空中でV字編隊を組み、コォーコォーと高い声で鳴きながら、高く高く空に舞いあがってゆく。 やがて、あたりは静けさを取り戻し、子供達が置いていったヘッドフォンから、虚ろな声が響いた。 「あられもなく興奮しやがって。お前なんかもう親友じゃない」 草わらに埋もれたヘッドフォンの裏側には、手書きで野鳥リンガル(仮)と書かれているのがちらりと見えた。 北緯42度41分56秒 東経141度42分40秒。 野鳥ボランティアの熊田さん(六十九歳)によると、ここ、ウトナイ湖には、渡りをしない一羽のオオハクチョウがいるとのことである。
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