第1章

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 彼女は十年も前に新婚旅行でタイに行って以来、三浦半島から出たこともない。新婚旅行の行き先は南のビーチリゾ ートではなく、雑然とした首都バンコクだった。新婚のふたりはホテルの予約もないまま、重いバックパックを背負っ て不案内な街を歩き回ったのだった。 バンコクの街には揚げ物のにおいが染みつき、物乞いはだらんと手を垂らしている。歩道の敷石はぐらつき、足をのせ ると雨水を吐いた。彼女は無防備なサンダルの足を濡らした。そのぬめりを足裏に感じながら、彼女はどこまでも歩い たのだった。  整然としたファミレスの店内で彼女は小さく笑った。彼女は新婚旅行先がありふれた、風光明媚な観光地でなかったこ とを夫に感謝していた。そういう場所にいっていたら単純な印象しか残っていなかっただろう。彼女はときおり現在を 逸脱して記憶にこもることがあった。それは彼女だけの避難所だった。 朝子はテーブルを叩きながら、彼女に声をかける。彼女は顔を上げた。  最近、お腹がすいてしかたがないのよ。デザート何にする? 彼女はほとんど食べていない雑炊のわきにスプーンを置いた。  別れ際に朝子は「あんた、外に出るときは眉毛くらい描きなさいよ」と言った。「それから服も。Tシャツにジーン ズって。あんた、年とった中学生みたいよ」  彼女は朝子の車を見送ると、ゆっくりと歩きはじめる。朝子に言われたことを頭のなかで反芻しながら。彼女は三浦 海岸の駅で、電車のなかで、通りで誰かと視線が合うことを恐れて終始うつむいていた。ときおり、前髪に手をやる。 ドラッグストアで眉ペンを買った。スーパーの化粧室で彼女は鏡のなかに映った自分をしばらく見つめる。飾らない普 段着は、さっぱりした装いだと思っていたが、朝子に指摘されたことで、いかにもやぼったく見えた。最後に眉毛を描 いてからどれくらいたっただろう。ひと月前に仕事を辞めてからだろうか。じっと鏡を見ていると自分の顔が他人のも ののように思える。与里子の破顔が目の前でちらつく。自分の顔が他人のものであったらと彼女は思った。眉ペンを取 り出すと丁寧に眉毛を描いた。  彼女は食料品を買いにスーパーへ向かった。食品売り場をぼんやりと歩きながら、自分と与里子のあいだには不等号 がある、と彼女は思った。そして朝子とのあいだにも。夕食の献立は浮かばなかった。空っぽの買い物かごが重たい。
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