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彼女は自分と夫と八歳になる息子のことを思った。工場に勤めている夫は交代勤務をしている。その週は夜勤で今ごろ
は眠っているだろう。授業の終わった息子は今ごろ学童で過ごしている。耳を澄ませれば、彼女は今いる場所で夫のひ
そやかないびきが聞こえてきそうな気がした。彼女は何も買わずにスーパーを出ると学童にいる息子を迎えに行った。
午後の日陰は涼しかった。彼女は息子と手をつないで歩きながら、学童の担任から言われたことを考えている。担任は、
雄太君はなんど名前を呼んでも返事をしないし、お友だちと遊びもせず机の傷をなぞってばかりいた、と言った。「せ
っかくみんなで楽しく遊んでいたのにね」彼女のかたわらにいた息子は唇を固く閉ざし、目を伏せていた。彼女は彼の
前にかがんだが、息子は顔をそむけた。その小さな肩にふれる。息子の白いTシャツの胸に赤いしみがついている。彼
女は指先でしみを拭った。担任は、今日のお昼はミートソースだったそうですと言う。彼女は何も言わずにもういちど
しみに手をやる。壁にかかった時計ががたごとと大きな時を刻んだ。秒針は性急でぎこちない。もうこんな時間なの?
彼女は自分の時計に目をやった。腕時計の時間は遅れている。担任はすでに別の家族と話をしていた。ひび割れた笑い
が遠くこもって聞こえた。にぎやかにあいさつを交わしている。彼女は立ち上がった。秒針の音はしだいに高まってい
く。彼女は耳を澄ませる。それはトリルのようにはじまり、スネアドラムのように響く。指先はふるえた。点々とはね
たしみは赤くにじんでいる。
雄太はときおり老木のように黙りこんだ。ふだんは歩くことよりも走ることの多い快活な子どもだったからだろう、
第三者からは、それを病状のように指摘されたりもした。そのたびに彼女はあいまいな表情でその場を切り抜けるのだ
った。空の端が赤く開き、あたりの建物は黒く奥行きをなくしていく。斜光に伸びたふたつの影が長く重なる。彼女は
息子を見つめた。ランドセルにぶら下げられたキーホルダーが歩調に合わせて揺れている。彼は頭を少し傾げて側溝の
あたりを見ている。彼女には息子の黒い頭ばかり見えた。雨傘のようだ、と彼女は思った。いや、しめじの傘だ。髪が
伸びたね、と彼女は言う。
そのとき、息子は彼女の手を強く引いた。もう片方の手は側溝を指していた。息子の指の先にやもりがいた。岩の隙間
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