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電車が入ってきた。
改札から人が押し合いへし合い出てくる。そして、次第に改札を出てくる人の数が減っていった。
人が降り切った電車内に、七十歳を越えたと見えるシズさんが座っていて、その肩を、彼女が揉んでいた。三十歳前の彼女の白い腕を、初夏の朝光が緩やかに照らしていた。
「ありがとう。着いたから、もういいですよ」
はい、と彼女は揉むのを止めた。
気持ち良さそうに肩をぐるりと回しシズさんは、ああ、とってもいいわね、と漏らす。そうですね、と彼女は窓から外を見た。
「いい天気、ですね」
「あら、あなた、天気じゃないわよ。あなたが肩を揉むのがよ」
彼女は、あ、ああ……、と顔をシズさんに戻し、微笑んだ。
「私の、揉むのが……?」
「そう。でも」
シズさんは窓の外に目をやり、天気もいいわね、という。
「はい。とても」
彼女も、もう一度、目をやった。
シズさんは目を彼女に戻しながら、この後は、何処へ? と問う。
「川崎で一人お相手する待っていると 思うので、その人の相手をしながら、そ の後は金沢八景です」
「金沢八景ということは、あの、なんと言ったかしら、元女優さんだっという」
「江口、良美さん、です」
「そう、江口さんね。奇麗な人だったわね。今も、お奇麗?」
「はい」
「私、よく見てたのよ、あの人が出ていた映画。ファンだったの。あなた、見たことある?」
「はい」
「どの作品が好き? わたしはー」
そこに、乗客がまばらに入ってくる。
「あら、いけない。折り返しね。このままだと又終点に戻っちゃう。じゃあ」
立ち上がり、また、来週の、同じ時間に、とシズさんはいう。
「はい。わかりました」
シズさんは出口に行こうとして、立ち止まり、戻ってくる。
「江口さんに、よろしくね」
彼女は少し戸惑ったように、……は、はい、と返した。
「あ、駄目ね。そういうことで、あなた、こういうことやっているわけじゃないんですものね」
どう返せばいいか、と彼女は思案の表情になった。
「ごめんなさい」
「いえ」
「肩を揉んで貰う分の手当以上のことを、頼んじゃ駄目ね」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
「あなた、いい人だから、つい、色々と頼んじゃいそうになるのよ」
「はい……」
「私ねー」
そこで電車が動き出す音がする。二人、あっ、という顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
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