第1章

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「別れ」  「海の近くだと櫛の通りが悪いわ」  観音崎──彼女はつぶやくようにそう言いながら、海からの風が紛れ込むホテルの窓から外を眺め、絡みつく髪に手をやっている。  早朝、まだマニキュアをしていない指先が白い。次に、その白い指先で部屋に置いてあった双眼鏡で海を眺めた。何が見えるのだろうか、貨物船か、それとも軍艦かもしれない。が、彼女は何も言わない。  昨日、私たちは横浜にいた。赤レンガの建物が暗く澱んだ倉庫街を、肩を並べ、手をつなぐこともなく、当てもなく歩いていた。海から迷い込んだ?が飛んでいた。横浜のお土産に私は小さな玩具を二つ購入した。なぜ二つ買うのかと彼女は言った。もう一つは誰のためなのかと。  旅は横浜で終わるはずだった。だが、私たちはずるずると観音崎までやって来てしまったのだった。  ──と、レストランでの朝食の途中、ホテルのアナウンスが私を呼んだ。  コーヒーカップを持つ、赤いマニキュアをした彼女の手が宙で止まった。私と彼女は見詰め合った。彼女の目は「何かしら?」と最初は問いかけ、次に深い絶望の色を示した。  ホテルにかかってきた電話の向こうに私の妻がいることを、彼女は直感で感じ取っていた。私たちがこのホテルに泊まっていることなど誰も知るはずはなかった。だから妻から電話があるということは、先に私のほうから妻に連絡を取っていたことになる。  電話に出るかどうか、すべてはそのこと一つにかかっていた。               
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