葉山の海でもう一度

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午後一時半過ぎ、ランチの客が引いてきた。 「香織ちゃん、そろそろ休憩入りな」 「すみません。じゃ、先に休みます」 あれから依頼人の橋本氏とメールでやりとりしたら、今日にでも会いに来たいと返事があった。 ユカの了承を得て、香織は緊張と期待を感じながら、今日の午後三時に『カフェ・ユッカ』で会う約束をした。 いつものようにお弁当を持って、茶々丸を連れて海に出かける。 ほんの少し歩けばすぐ海だ。 茶々丸と浜辺をしばらく走り回り、海を眺めながら持ってきたお弁当を食べる。 甘えっこの茶々丸は、砂の上に投げ出した脚にべったりと寄りかかっている。 「さて、そろそろ戻ろうか」 茶々丸と一緒に元来た道を歩く。 天気はよく、茶々丸も軽い足取りでシッポをゆらゆら揺らしている。 店が見えてきた時、茶々丸を呼ぶ声が聞こえた気がした。 ピクリと反応した茶々丸が、急に走りだす。 「ちょ……っ、茶々! 止まりなさい!」 リードに引っ張られ、香織も走る。 茶々丸が向かう先に、男がいた。 店の前でしゃがみ、茶々丸を迎え入れようと両手を広げ、 「茶々丸ーっ」 名前を呼ぶ。 制御できなくなった茶々丸に香織は青ざめた。 人を襲う子ではないが、大型犬が人様に突進するというのは問題である。 茶々丸はまっしぐらに駆け、その男へ飛びついた。 その勢いに任せるように、男は茶々丸を抱えてコロンと仰向けに転がった。 「茶々! ダメ! 離れなさい! すみません大丈夫ですかっ」 香織の心配をよそに、男はからからと笑っていた。 「でっかくなったなぁ、茶々丸。覚えてるのか? 俺のこと」 え、と香織の動きが止まった。 ちぎれんばかりにシッポを振る茶々丸が覆いかぶさっていて、男の顔は見えない。 見えないが―― その声は、香織が知っている声だった。 まさか―― 熱烈歓迎している茶々丸のわきから、男が顔を出した。 「――秋野、久しぶり」 「せ……っ」 まさか、 という思いが的中した驚きと、 二十代から三十代に そこはかとなく移行したその姿の新鮮さと、 それでもやっぱり 変わってないと思う懐かしさと、 会いたかった―― その思いで、 胸やらのどやらが詰まって、 先輩―― そのたった一言が、出てこなかった。
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