第一段 鞠屋

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「はい。あとは今宵また」 廊下に腰をおろしたままで頷いた薫に、お藤は畳に手をついて向き直った。手をついて立ち上がると、薫は畳の縁を踏まぬように部屋に入る。 近くに藤堂屋敷や細川屋敷があり、こじんまりした寺社を挟んだ通りにこの鞠屋はある。その奥座敷が、鞠屋の主人、お藤の部屋だ。 床板を軋ませて、女中が二人の朝餉を運んでくる。床の間を背にしたお藤と薫が揃って膳に向かった。 鞠屋は、もともと料理屋だった店を居抜きでお藤が引き取ったものだ。鞠屋の名もそのまま引き継いでおり、客の中には新しくお藤が女将なっただけだと思っている者もいる。 「今日の汁は、海苔でしょうか。よい香りがする」 嬉しそうに椀を手にした薫が、熱い汁を口にする。 元々、鞠屋の主人は鞠屋十兵衛という好々爺で知られた人物であった。 夫婦仲のよさでも評判の鞠屋は間口が二間ほどではあったが奥に広く、座敷が五つほどある。静かで趣があり、京風だけではない味の良さに商いも順調であったが、半年ほど前に、女将であるお菊がはやり病であっけなく亡くなってしまった。 それからしばらくの間、十兵衛は店じまいをしていた。 周りの者達が、それこそ十兵衛がお菊の後追いでもするのではないかと心配するほどだったが、しばらくして何事もなかったように鞠屋が暖簾を出したときには皆、ほっと胸を撫でおろした。 だが、店の者もほとんど変わらぬままで、店をあけた鞠屋から、十兵衛の姿は消えていたのである。 店に足を運んだ客の中で気づいた者は女中に問いかけた。 「旦那はんはどないしはったのや」 「へぇ。隠居所をつくらはってそちらのほうへいかはりました」 「ほな、店はどないになってますのや?」 「新しい女将はんがいてはります」 どの女中達も、新しい主人を厭う様子もなくそう応える。
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