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「おはようございます」
「母上!おはようございます」
何の前触れもなく姿を見せたお藤は、その手に風呂敷に包んだ重箱を抱えていた。
「料理を少しばかり詰めてきました。そろそろ飽きがきている頃でしょう?」
「ありがとうございます。どうしたものかと頭を抱え始めていたところでした。母上に禁じられていましたが、店に押しかけようかと思っていたところです」
「あなたと言う人は、……呆れること」
もともとお藤もこの家に住んでいたのだから勝手知ったるもいいところである。さっさと家に上がったお藤は、台所に向かうと湯を沸かし始めた。
重箱を置いて、茶の支度をすると重箱と共に部屋に運ぶ。
鞠屋であれば人もいるし、お藤のいる部屋には長火鉢もおいてあるから鉄瓶には常に湯が沸いているが、この家では薫だけである。
不意に他行することもあると思えば火鉢に火を入れておくようなことはしない。その分、茶を入れるときは、毎度毎度、湯を沸かさなければならないのが不便である。
「お座りなさい」
「わかりました。母上」
お藤の後をうろうろと家の中を歩き回っていた薫は、お藤に言われて腰を下ろした。
向かい合って、座る薫にお藤は箸を差し出す。傍目にはわからないように見えて、親子である。
薫は、嬉しそうに目の前に広げた重箱に箸を伸ばした。
「おいしいです。母上」
「そうでしょうね。あなたは昔から食べることだけはうるさいものだから」
「母上のお仕込がよろしかったからです。僕のせいではありません」
みていて気持ちのいいほどの食べっぷりに少々の呆れと、満足を覚えたお藤はしばらく黙ってみていたが、茶をすすると、視線を逸らした。
「……その姿」
障子を大きく開いた小さな庭先を見て呟いたお藤にようやく箸を止める。
「おかしいでしょうか。江戸にいた頃も月の半分ほどはこの姿でしたが……」
「それは、剣術の道場へ通ったりする時に必要だったからでしょう。京に来てからはその機会もなかったのですから久しぶりだこと」
お藤にとっては男の姿でいることは気に入らないのだろう。
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