19人が本棚に入れています
本棚に追加
「帰路に立っておるの」
突然話しかけられて横を見れば、高級そうなスーツに身を包んだ老齢の男が座っていた。
僕がビクッと肩を揺らすと男は喉の奥で「ククク」と笑い一台の大型の洗濯機を指さした。絨毯や毛布がまるごと洗える二十三キロタイプのものだ。
「これは一見洗濯機だが実はタイムマシンじゃ」
「は? 何言ってんの?」
「信じる信じないは、おぬし次第じゃ」
「信じるわけないじゃん」
「過去に戻りたい時は戻りたい年数分硬貨を入れる。十年なら百円玉を十枚じゃ」
「随分安いな。未来は?」
「未来も同じじゃ」
「選べないの?」
男は僕を見てニヤリと笑った。
「儂が外から選択ボタンを押す。おぬしはやり直したいのじゃろ?」
僕は回っている洗濯物を見た。
洗濯物はドラム型の洗濯機の中で灰色の泡水に揺すぶられ叩きつけられていた。
どうせもう、今の僕に未来を期待する要素は何もない。それならイチかバチか賭けてみてもいいのではないだろうか。馬鹿げた妄想だと笑うやつは笑えばいい。
僕は男を見た。
男の小さく窪んだ目。
動物園でしか生きられない物悲しいゾウのような目だった。
小さな目の下には大きく刻まれたシワ。
年輪のようなそのシワの溝にはきっと後悔ばかりが詰まっている。あの時決断していたら人生は変わったのか? そう振り返りながら生きてきた目に僕には感じられた。
「……十年前の過去へ行きたい」
僕は千円札を両替し、百円玉を十枚投入して靴のまま大型の洗濯機の中へ入った。
男が顔を近づける。
「分かっておるだろうが、このマシンはグルグル回る。船酔いの状態になるじゃろう。しかしそれを耐えればお前の未来は変わる」
「頑張るよ。ありがとう」
男は微笑み扉を閉めた。
その時フト思った。
過去と未来を選択する。この洗濯機にはスタートボタンのひとつしかないのに、どうやって選ぶのだろう。
「なぁ、ちょっと……」
扉の向こうから男に話しかけようとして気づく。男の姿がどこにもない。内側から開けようとしたが扉はビクともしない。
ガコンと振動を感じる。ドラムは右へ左へと振れた。ジーッという電子音のあとに、大量の水が流れ込んできた。洗剤も。
目が痛い。息が出来ない。誰かここを開けろ! クソッ! ジジイはどこ行った!
最初のコメントを投稿しよう!