第1章

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お父様はT大卒の弁護士会会長、弟もT大卒、手紙文中の妹はO女子大学在学中、本人はC大の法科出身二十六歳である事を後で知ったのである。 妙子とは別世界の人、身分が違う隆とは当然添い遂げる事は出来ないと知りながら、心の奥底に潜む乙女心は怪しく燃えていった。指一本触れようとしない隆の潔癖さに抑え難く惹かれていった。 私たちには時間がある時の定番のデートコースがあった。スワンから海辺までの道をゆっくり歩くのだが、 ただ歩きながら近況を話し合うだけでも、妙子の心は幸せ一杯になった。 夕刻になると水平線に落ちる岬の夕日を片瀬に浴びながら、それを紛らわすためか、隆は決まって、その頃流行っていた和田弘とマヒナスターズの「泣かないで」という曲を口ずさむ。そのフレーズは、本当に心に沁み入るように切なかった。 さよならと、さよならと街の明かりが一つずつ 消えていく、消えていく・・明日の晩も会えるじゃないか・ 春の観光シーズン五月中旬の事だった。公休日返上続きで、久々の休日妙子の誕生日は横須賀デート、ジャズ音賑やかな大滝町ドブ板通りを経て、軍艦三笠が停泊、猿島を望む夕暮れの公園ベンチでのひと時、素敵な誕生プレゼントを前に「貴女は二十一年前の今日生まれたのですね」六歳年上の隆からの優しい言葉。妙子は心時めき感激に酔いしれ三笠の夜はロマンに溢れていた。 最高のムード、ここで普通のカップルなら熱い抱擁、劇的な場面が展開するであろう。燃え滾る乙女心を抑えながら、その時兄の面影「この世で会えなかった兄」を重ねた。 隣接する米海軍基地のせいなのか、八歳の誕生日を思い出した。京急旧戸部駅近くの我が家から父は横須賀海軍海兵団入隊後、昭和二十年五月二十九日、横浜大空襲で九十二万三千二百発の焼夷弾の中から生還したこの命の尊さをかみ締め、この夜ほど、生涯最高の幸せを歓喜した誕生祝いはなかった。尊敬する素晴らしい人との、楽しい逢瀬に生きる喜びをかみ締めていた。 三笠デート以来一ヶ月余り過ぎた初夏の夜だった。 「実家にいらしたの?」「正月以来両親と話し合って無かったので」帰省した時に豪華な岩槻人形のお土産を頂いたのを思い出した時、隆の足が突然止まった。「アッもしかして、プロポーズ?」妙子の胸はドキンと高鳴りを感じ神妙に次の言葉を待っていた。
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