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そこを散策しながらとりとめもない話をする野外デート。北条湾近くには唯一の映画館に一度だけ、後にも先にも彼との映画鑑賞であった。気候温暖の暖かい三崎地方も雪こそ降らないが、冬は寒い。喫茶店にも入れずに野外デートは続いたある夜、待ち合わせ時刻に近づく人影は別人に「ハッ」と驚く妙子の前に敬礼するその人は、あのスワンで一緒だった後輩の松ちゃんだった。「彼は本日横浜の裁判所に出向き遅くなります」刑事課へ移り護送用の車を運転していた頃は、まだ高速道路も無く十六号線を走行、県南端から横浜は遠出の仕事「当時京急電車は浦賀終点」を担当していた。
お互いの熱く燃え滾る情熱は厳寒を通過して、誠実真面目な彼との恋は限られた時間の中を燃えていった。ある日街でバッタリと出会った先輩署員は「君たち!まぁだ結ばれてないの?」
同僚にそこまで語っていた彼の我慢強さと優しさに深い愛情を強く感じ、プロポーズを快く受けた。
八月の旧盆私達は始めて四日間の休暇を取って、婚約結婚の報告と挨拶を兼ねて彼の実家茨城県潮来へ行った。
美しい水の都、水郷地帯の大きな米農家で、水郷小町と言われた美人の母親は警察学校の時に亡くなり、父親と祖母、兄夫婦と姪二人、大広間の真中に離れて敷かれた布団、私達は手も足も出さず清い夜を過ごした。
養子の父親は二九歳の息子の結婚を喜び嬉しそうに迎えてくれ、祖母は亡き母の実母で暖かく優しかった。お兄さんとは初対面なのに豊富な話題に夜遅くまで話し込んでいた。何時も夜の野外デートしか知らない私達、全休暇を実家で過ごす彼の様子に腹立ちを感じた三日目の朝「ねぇ何処か行かないの?」真面目な彼は一瞬戸惑ったが、後一日の貴重な休暇を兄に見送られ、徳富蘇峰「水郷の美、天下に冠たり」と言われた水郷情緒を味わいながら、雄大な霞ヶ浦を舟で南下、明峰筑波山「雪は申さずまず紫の筑波かな」松尾芭蕉の弟子服部嵐雪の名句が浮かぶ、世阿弥謡曲桜川で有名な町を散策後、土浦桜川畔にその夜、知り会って三年交際十ヶ月の妙子は七歳違いの彼と小さな和風旅館に宿泊した。
初秋九月の大安吉日。
潮来から義父が上京、京急上大岡郊外妙子の実家を訪れた印象は「横浜でも潮来より随分田舎ですね」
関東平野で生まれ育った義父は、まだ開発前の当時の芹が谷に驚いた。
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