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日ノ出町
上品な香りに、俺が眼を覚ましたのは、日ノ出町だった。
香りと共に、一瞬の喧騒が辺りにひろがっていた。
大きな花束を抱えた若い女性が、同僚とおぼしき、如何にも水商売風の男女に見送られて、がらんと空いた車両にひとり乗り込んで来た。
香水だと俺が思った香りは、花束からだった。いや、微かに香水の香りも感じられた。
花束の、そのピンクとも、紫とも言えない、何とも美しい蘭が俺の眼を引いた。
どうやら、彼女の送別会の見送りらしい。
その車両には、彼女以外に俺だけだった事もあり、早朝にも関わらず、割と盛大な見送りだった。
小さく手を振りながら、彼等に返す彼女の美しい微笑みには、切なさと喜びが絶妙に入り混じっていた。
俺に遠慮してか、控えめなトーンの会話を全て聞き取る事は、俺には出来なかったし、そんな気は毛頭無かったが。
ただ断片的に、何らかの出来事から、不本意な形で、彼女が仲間と別れを惜しんでいる事は、俺にも解った。
「プシュッ」という小さな音と共に、車両のドアが閉まり、列車は動き始めた。
俺は再び眠りに落ちかけていた。
その時、押し殺した様な忍び泣きが聴こえた気がした。
再び眼を覚ました俺は、彼女の異変に気が付いた。
彼女は泣いていた。
列車が次々とトンネルを過ぎて行く間、彼女は忙しなく携帯をいじっていた。
恐らくは男と女の、そんな良くある話しだろう。
何度もため息をつきながら、時折彼女は携帯を見つめ、強く握りしめていた。
車両の先頭のボックス席に、俺は一人座っていた。
彼女は同じ車両の最後尾の席に座っていた。
蘭の花束と、彼女の横顔が重なり合っていた。
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