0人が本棚に入れています
本棚に追加
「おまちどおさま。あったかいですよ。少しは酔い覚ましてくださいね。私はちゃんと学校へ出勤ですからね。永瀬先生が生きていらっしゃったら、なんておっしゃることか」
「そうだな、親父が生きていたら、なんて言うだろうな。聞いてみたかったな。親父はどんな先生だったんだろうな」
プルタブを開けて、一口すすりながら、隣に座った野村先生に呟いた。まるで小学生の自分が、担任の先生に尋ねるように。
「生徒の悩みとか、たくさん聞いてくれる先生でしたよ。体操の苦手な子に、付きっきりで、逆上がり教えてましたよ。永瀬さんは何か教わらなかったんですか」
「……ないな。お袋が亡くなってからは、あまり口を利くこともなかったし。親父が何を考えてたのか、気にしたこともなかった。ピアノやめて、剣道始めた時も、黙ってたな。何か言いたかったんだろうな」
「ほら見て見て、うっすら水平線が浮かんできましたよ。もうすぐ、夜明けですね。日の出が見られますよ」
並ぶように隣に座って、野村先生は少しはしゃいでいた。
そうだよ先生、浦賀から観音崎まで、海岸は沢山あるけれど、水平線から陽が昇るのはここだけなんだ。あとは房総の稜線越しなんだ。小さい頃に、親父に教わったんだ。昨日タクシーの中で、急に思い出したんだよ。
あっという間だよ。ほら水平線がオレンジ色に染まり始めた。どんどん黄色が強くなってくる。
永瀬は、ジーンズのポケットから、ノートを取り出して、二人並んだ砂浜の足元に、そっと置いてみた。野村先生は何だろうと、少し首を傾げている。
端無くも 酔い伏し至る朝の海
先駆け翔けよ 黒き燕は
その時、親父に何があったのだろうか。酔った姿など見せたこともなかった親父に。なぜ酔ってしまったのだろう。そして、朝までこの砂浜にいたのだろうか。
黙したままの若かった親父の姿を、ようやく上がった朝陽が目映いばかりに浮かび上がらせた。そして突然、一羽の海燕が海面ギリギリから現れ、急上昇し、高く高く飛翔していった。
親父の名を呼びたかった。
了
1
最初のコメントを投稿しよう!