第1章

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「おまちどおさま。あったかいですよ。少しは酔い覚ましてくださいね。私はちゃんと学校へ出勤ですからね。永瀬先生が生きていらっしゃったら、なんておっしゃることか」 「そうだな、親父が生きていたら、なんて言うだろうな。聞いてみたかったな。親父はどんな先生だったんだろうな」  プルタブを開けて、一口すすりながら、隣に座った野村先生に呟いた。まるで小学生の自分が、担任の先生に尋ねるように。 「生徒の悩みとか、たくさん聞いてくれる先生でしたよ。体操の苦手な子に、付きっきりで、逆上がり教えてましたよ。永瀬さんは何か教わらなかったんですか」 「……ないな。お袋が亡くなってからは、あまり口を利くこともなかったし。親父が何を考えてたのか、気にしたこともなかった。ピアノやめて、剣道始めた時も、黙ってたな。何か言いたかったんだろうな」 「ほら見て見て、うっすら水平線が浮かんできましたよ。もうすぐ、夜明けですね。日の出が見られますよ」  並ぶように隣に座って、野村先生は少しはしゃいでいた。  そうだよ先生、浦賀から観音崎まで、海岸は沢山あるけれど、水平線から陽が昇るのはここだけなんだ。あとは房総の稜線越しなんだ。小さい頃に、親父に教わったんだ。昨日タクシーの中で、急に思い出したんだよ。  あっという間だよ。ほら水平線がオレンジ色に染まり始めた。どんどん黄色が強くなってくる。  永瀬は、ジーンズのポケットから、ノートを取り出して、二人並んだ砂浜の足元に、そっと置いてみた。野村先生は何だろうと、少し首を傾げている。   端無くも 酔い伏し至る朝の海          先駆け翔けよ 黒き燕は  その時、親父に何があったのだろうか。酔った姿など見せたこともなかった親父に。なぜ酔ってしまったのだろう。そして、朝までこの砂浜にいたのだろうか。  黙したままの若かった親父の姿を、ようやく上がった朝陽が目映いばかりに浮かび上がらせた。そして突然、一羽の海燕が海面ギリギリから現れ、急上昇し、高く高く飛翔していった。  親父の名を呼びたかった。     了 1
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