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父と、三歳下の叔母は、この浦賀に生まれ育っていた。お互いの住居も近く、永瀬の中学入学と共に母が急逝してからは、この叔母には食生活も含めて、世話になりっぱなしだった。そして一昨年、父が退職目前で他界した時にも、葬儀の全てを叔母が面倒を見てくれていた。
「あなたのお父様はね、体調に気づいてから、身辺整理をしたらしくて、僅かな財産をあなたに残した以外は、殆ど遺品のようなものは何も残さなかったのよ。兄らしいと言えばそうなんだけれども。それがね、一冊のノートがまさか我が家に眠っていたとはね。分かったわね。必ずいらっしゃいよ」
永瀬の父は小学校の教員だった。いくつかの学校を転勤して、最後は生まれ育った浦賀の鄙びた漁港近くの小学校だった。母もやはり、教員でピアノが得意だった。二人が所帯を持ってからは、海辺を見下ろせる小高い山際の小さな一軒家に住んでいた。家までのだらだらと続く登り坂はきつかった。一息には辿り着けず、高校になっても、いったんは足を休めていたほどだ。そして何気なく振り返って見れば、そこには一陣の風が吹き抜け、そして群青の海が眩いばかりに煌めき、その存在感を誇示しながら横たわっていた。きっと横須賀は、坂道を上がりさえすれば、いつでもどこからでも振り返りさえすれば、そこには海が広がっているのだろう。
永瀬の記憶の中で、母はいつも優しかった、そして病弱だった。しかし、幼い永瀬にピアノを教える時だけは、とても厳しい教師だった。本当は、嫌で嫌で仕方がなかったが、時折見せる母の楽しげな横顔は、永瀬に「やめたい」という言葉をいつも飲み込ませていた。そして、そのお蔭で、今何とか食べていられるのかもしれない、造船所の跡地を過ぎて、バスは山際を走り抜けていた。永瀬はようやく見慣れた景色を楽しみながら、そんなことを思い出していた。
「あのう、生徒さんの親御さんでしょうか」
ごつごつとした桜の大木に寄りかかっていた永瀬は、若い女性の声にびっくりして体を起こした。
「いえ、違いますけど」
「すみません。不審者とか注意しているので。本校に何かご用ですか」
白衣を羽織った教員らしき若い女性だった。
「いや、ちょっと懐かしくて。すぐ出ますので」
「卒業生の方ですか?すいませんね、根掘り葉掘り……。あのう、もしかして永瀬先生のご子息かしら。お葬式の時にお会いしたかも」
「ええ、永瀬の息子です」
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