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「刃筋とは、刃の向きを斬り付ける方向に正しく向けることだ。これが正しく向いていないと、真剣であっても斬れない。例え力任せに斬り込んだとしても、刃は途中で止まってしまうばかりか、刃こぼれすることもある。
実際、ある武道館の落成式で剣道の高段者数人が、真剣で巻藁を試し斬りにするイベントがあった。だが、その場に居た剣道家は誰も斬ることができなかったそうだ。全員が刃筋を立てられなかったためだ」
その話に、公恵は軽いカルチャーショックを受けた顔をした。自分が思い込んでいた常識がまったく通じなかった。
「……でも教授。斬る対象が物ではなく、人間なら斬り殺すこともできるのでは?」
勲は、それを聞くと、少し考えて口にした。
「刀を刃の付いた鉄の棒と考えれば、いたずらに相手の肉を叩き、浅い切創を無数に作りながら呆れる程の時間を使って撲殺することはできるだろう。
だが、一刀の下に斬り殺すことはできん」
勲は続けて訊いた。
「佐伯君は、二・二六事件を知っているかな」
「え? あの……学生の頃に名前だけは聞いたことがありますが……。昭和の頃にあったような……。すみません歴史は苦手なんです」
公恵は日本史・世界史と中学、高校と成績はあまり良い方ではなく、それに伴って授業も上の空で聞いていたことがある。興味を持てなく暇なので、教科書にある偉人をもっと偉くしてあげようと、ついヒゲを描いて遊んでいたら先生に見つかり、クラスのみんなに笑われるのと同時に、ちょっと痛い拳骨をもらった苦い経験を思い出した。
「二・二六事件とは、昭和一一年二月二六日早朝、武力による国内改革を企図した皇道派青年将校らが起こした事件だ。
しかし、これ以前に導火線となる事件が昭和一〇年八月一二日にあった。相澤中佐事件だ」
「相澤中佐事件?」
公恵は、歴史の授業でも聞いたことのない事件に頭を捻った。
「これは、陸軍省の一室で皇道派の相澤三郎・陸軍中佐が、統制派の永田鉄山・少将を殺害した事件だよ。相澤中佐は軍教育訓練の総本山、元陸軍戸山学校の剣術教官で、剣道五段・銃剣道の達人だった。剣道五段というのは、当時の最高段位であり、現在の八段か九段の高段位に匹敵する達人的な腕だ。更に激剣抜刀術の実戦経験を持っていた。
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