第1章

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なんまんだぶ なんまんだぶ 与吉は必死で念仏を唱えた。 与吉がようようのことに難所を越えて、市振宿に着いたのは、既に日暮れ刻だった。 与吉は市振宿にある一軒しかない大きな旅籠に入った。 宿の主人は、 「今夜、たまたまお泊まりになられるのはお客様お一人でございます。ごゆるりと、どうぞ」 そう言うと、与吉を宿の一番奥の一間に案内した。 与吉は旅の疲れもあって、早々に床についたが、波にさらわれた老婆の事を考えると、気が高ぶって眠れなかった。 あれは仕方ない事だったんだ。 自分にそう言い聞かせた。 真夜中、与吉は妙な音がすることに気づいた。 ピチャッピチャッ…水のしたたるような音がしたかと思うと、ヒタヒタと廊下を歩く音がする。 今夜は私しか客はいないはずだが。 ガタガタ…障子を開ける音がした。 「ここでもない」 それは、低く呻くような老婆の声だった。 与吉は全てを悟った。 親不知子不知で波に呑まれた老婆が私を殺しに来たのだ。 ピチャッピチャッ… ヒタヒタ… ガタガタ… 「ここでもない」 ピチャッピチャッ… ヒタヒタ… ガタガタ… 「ここでもない」 声と音はだんだん近づいて来る。 ピチャッピチャッ… ヒタヒタ… ガタガタ… 「ここでもない」 与吉は体を動かそうとしたが金縛りにあって動かない。 ピチャッピチャッ… ヒタヒタ… ガタガタ… 「ここでもない」 老婆が隣の座敷を覗いた気配がした。 与吉は必死で逃げようとしたが、体が動かなかった。 ついに与吉の座敷に老婆が来た気配がした。 ピチャッピチャッ… ヒタヒタ…ガタガタ… 「ここだっ!」 障子が開いて、鬼のような形相をした老婆が座敷に入って来ると、動けずにいる与吉の胸ぐらをつかんだ。 次の日の朝、与吉が目をさますと、まるで海にでも入ったように体がぐっしょり濡れていた。はだけた与吉の胸には産みの母親からもらった御守袋があった。 与吉が起きた気配に、宿の主人がやって来た。与吉は、一昨夜、旅の六部の老婆が泊まったかを主人に尋ねた。 「はい。お泊まりになられました。その六部のお婆さんは、十七年前に、倅さんを親不知子不知の荒波にさらわれたそうで、その供養においでなさったそうでございます」 その話を聞いて、与吉の体から力が抜けた。 「そうだったのか…そうとも知らずに私は…」 与吉は両手で顔を覆って泣いた。
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