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なんまんだぶ
なんまんだぶ
与吉は必死で念仏を唱えた。
与吉がようようのことに難所を越えて、市振宿に着いたのは、既に日暮れ刻だった。
与吉は市振宿にある一軒しかない大きな旅籠に入った。
宿の主人は、
「今夜、たまたまお泊まりになられるのはお客様お一人でございます。ごゆるりと、どうぞ」
そう言うと、与吉を宿の一番奥の一間に案内した。
与吉は旅の疲れもあって、早々に床についたが、波にさらわれた老婆の事を考えると、気が高ぶって眠れなかった。
あれは仕方ない事だったんだ。
自分にそう言い聞かせた。
真夜中、与吉は妙な音がすることに気づいた。
ピチャッピチャッ…水のしたたるような音がしたかと思うと、ヒタヒタと廊下を歩く音がする。
今夜は私しか客はいないはずだが。
ガタガタ…障子を開ける音がした。
「ここでもない」
それは、低く呻くような老婆の声だった。
与吉は全てを悟った。
親不知子不知で波に呑まれた老婆が私を殺しに来たのだ。
ピチャッピチャッ…
ヒタヒタ…
ガタガタ…
「ここでもない」
ピチャッピチャッ…
ヒタヒタ…
ガタガタ…
「ここでもない」
声と音はだんだん近づいて来る。
ピチャッピチャッ…
ヒタヒタ…
ガタガタ…
「ここでもない」
与吉は体を動かそうとしたが金縛りにあって動かない。
ピチャッピチャッ…
ヒタヒタ…
ガタガタ…
「ここでもない」
老婆が隣の座敷を覗いた気配がした。
与吉は必死で逃げようとしたが、体が動かなかった。
ついに与吉の座敷に老婆が来た気配がした。
ピチャッピチャッ…
ヒタヒタ…ガタガタ…
「ここだっ!」
障子が開いて、鬼のような形相をした老婆が座敷に入って来ると、動けずにいる与吉の胸ぐらをつかんだ。
次の日の朝、与吉が目をさますと、まるで海にでも入ったように体がぐっしょり濡れていた。はだけた与吉の胸には産みの母親からもらった御守袋があった。
与吉が起きた気配に、宿の主人がやって来た。与吉は、一昨夜、旅の六部の老婆が泊まったかを主人に尋ねた。
「はい。お泊まりになられました。その六部のお婆さんは、十七年前に、倅さんを親不知子不知の荒波にさらわれたそうで、その供養においでなさったそうでございます」
その話を聞いて、与吉の体から力が抜けた。
「そうだったのか…そうとも知らずに私は…」
与吉は両手で顔を覆って泣いた。
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