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希望
淡いピンクの花びらが風に吹かれて蝶のようにヒラヒラと舞い降りてくる。
さし出した手のひらにそれが吸い寄せられるようにとまった。
信二は足を止め、ふと頭上を見上げた。
桜が満開になっている。
ほのかに匂う甘い香りに思わず目を閉じた。
そしてその香りを鼻の奥、そして胸の中までゆっくり吸い込むと、
すっかり忘れていた春の心地よい空気が体の隅々までしみこんで来た。
寒い冬は過ぎたのだ。
目を開けると、その淡いピンクの切れ目の向こうに青い空がどこまでも広がっていた。
電機メーカーに勤める池田信二は朝7時に家を出て夜11時過ぎに帰宅し、たまの休日は疲れて昼過ぎまで寝ている。
そんな追いかけられるような毎日をずっと送ってきた。
そして今日もいつものように自宅を出て会社に向かった。
ただそれまでと違ったのは昨日会社から定年を言い渡されたことだ。
もしかしたら嘱託といった形で残れるのではないか、
あるいは子会社を紹介してくれるのではないか、と思っていた。
しかしそんな甘い期待も「ご苦労様でした」のひとことで全て消えてしまった。
四十年近く会社に尽くしたと思っていたが、それは自己満足に過ぎなかった。
まだ子供は大学に入ったばかりで卒業まで3年ある。
再就職先を考えたがこれといって専門分野を持たず、
ただひたすら真面目に生きてきただけの60歳の人間を受け入れてくれるところは思いつかなかった。
これまで一生懸命働いてきたのは一体なんだったのだろうか。
昨晩はそんな事を考え悶々として眠れなかった。
毎朝なにげなく聞いている「いってらっしゃい」という妻の声が今日はずしりと体の芯に突き刺さり、ぬかるみの中を進むように足が重い。
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