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第1章 憧れのヘアサロン
「なんで俺はこんなことやってんだ…」
さっきまでサロンで口論していた同期の泉の顔が頭の中に浮かんでくる。
「なんで俺が寒空の下で店のチラシ配らなきゃならないんだ、くそっ…」
前方から歩いてきた二人組の女子高生が、怪訝な顔をしながら少し距離をとってすれ違う。
「なんか危ないね、あの人」
背後にそんな声を聞きながら、匠は店のチラシが入った袋を片手に、駒沢通りを歩いていた。
美容専門学校を卒業し、憧れのヘアサロンに入店して早8ヶ月が経っていた。
専門学校の同期たちはせっかく就職したサロンをすでに半数が退職していた。
美容師を志したまでは良かったが夢と現実とのギャップに耐えられずやめてしまう、そんな業界であることを匠も聞いていた。
幸いにも匠の就職したサロンは先輩の面倒見がよかった。
日々の業務の中では叱られることはあったが、いじめや嫌味の類は一切なく、技術を磨く場としては良い環境だった。
そして何より、改装して1年も経たないサロンはとにかく素敵だった。
入社を決めた理由も、サロン設備に圧倒されたからといっても良かった。
駅から20分も離れた閑静な住宅街のど真ん中。
一般の商売人ならば絶対にこんな場所に店を出そうとは思わない、そんな場所にあった。
それでいて料金看板も出さず、はいれるものなら入ってごらんと言わんばかりのブラックの外装のサロン。
店の前の駐車スペースには左ハンドル専用なの?と思うほどの高級車が絶えず並んでいた。
近隣客だけでなく、紹介でご来店になる芸能筋のお客様も多かった。
強気なサロンコンセプト、それに満足して集うお客様、匠にはカッコよく見えて仕方なかった。
同期入社の泉とはとにかくウマが合わなかった。
コトあるごとにぶつかり、おはようの一言だけで1日を過ごす、そんな日もあった。
匠が楽しげにお客様と会話でもしようものならば平気で割り込み、相手が男性客でもあれば平気で体を摺り寄せていく。
逆に少し小うるさいお客様に対しては絶対に近寄ろうとせず、何か呼ばれることがあっても匠が動かない限り平気で聞こえぬふりをする。そんな奴だ。
泉は面倒くさいコトには絶対に手を出さず、ウケが良い美味しい場面だけに絡んでくる。
当然のごとく裏仕事や準備片付けは全て匠の仕事、そんな毎日だった。
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