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少女は悲しげな顔になった。
「ママはいないわ。ママは階段から落ちて、それであたしはママとバイバイしなくちゃいけなくなったのよ」
見上げる少女の顔を見たとき、ふいに私の脳裏に、ひとりの女が思い浮かんだ。
以前、私はある女と深い仲になった。美咲という、若くて綺麗な女だった。
しかしそのときには、私には妻と幼い息子がいた。
私はちょっとした遊びのつもりだった。美咲もそうだと、私は思っていた。
ある日美咲は、子どもができたの、と言った。私は堕ろしてくれと言った。しかし美咲はそれを拒否した。
頑なな彼女を、私は散々責め立てた。美咲と一緒になる気も、妻子を失うつもりもなかった。
そんなとき、美咲が、駅の階段から落ちたことを知った。
雨で足元が滑りやすくなっていたのが原因だった。骨折するほどの大怪我だったらしい。それほどの怪我なら、子どもはダメだっただろうと思った。
私はこれ幸いと、美咲から逃げた。もう何年も前の話だ。
しかし――。
私は少女を見下ろした。
見れば見るほど、少女はあの女に似ているような気がした。そうだ、目のあたりや口元がそっくりじゃないか。
あのとき子どもは無事だったのか。それとも別の男の子どもか、そうだ、そうに決まってる。
どちらにせよあの女、私の居場所を調べてたんだな。それで子どもをよこすなんて、一体どういうつもりなんだ。それも、変な話を吹き込んで。今更。もう終わった話だ。
「ママの名前はなんていうんだ? もしかして、美咲っていうんじゃないか?」
「ママに会いたいの? でもダメよ。ママはまだ来られないわ。でもパパはあたしといくのよ」
少女は私の手を握りしめた。
「いや、行かない。どこにも行かないよ。君はママのところに帰るんだよ。それで、ママに言うんだ。おじさんはパパじゃなかったって」
私は諭すように言ったが、少女は首を振った。
少女の指が、ギリギリと私の腕に食い込んだ。とても子どもの力とは思えない。
「痛い。離せ、離してくれ」
「ここ、暗くて冷たいの。みんなあたしと電車に乗ってくれないの。でもパパが来てくれた」
少女は瞳を爛々と輝かせた。
「あたしずっとひとりぼっちだった。でももう寂しくないわ。これからはパパがいるもの!」
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