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一体何の話をしているんだ? これではまるで、彼女は自分が「上野ミコトではない」と言っているかのようだ。そして僕は本当の上野ミコトを忘れていて、目の前の彼女は上野ミコトに成り代わった?
何のために。僕に近づき、親しくなるメリットがこの人にあるのか。そもそも「上野ミコト」とは誰なんだ。目の前の人物が偽物となると、僕が忘れたという本物の「上野ミコト」は一体どこにいるのだろう?
「……ケンヤ?」
いつの間にか、上野ミコトと名乗った人物がこちらに振り向いていた。虚を突かれた様子で、茫然とこちらを見つめている。咄嗟に何も言うことができず、お互い口を閉ざしたまま沈黙が続いた。しかし、これでは埒が明かない。
「……上野ミコトって、誰なんだ」
慎重に問いかける。彼女は息を飲んだ。右手に握ったままの携帯に、さらに力がこもるのが見える。
「お前は、上野ミコトじゃないのか? 僕がその人のことを忘れているのを利用して」
「違う。上野ミコトは私だよ?」
「なら上野ミコトのことを忘れてもらえたよかったって話していたのは、どういう意味だ」
目の前の彼女は口を引き結び、顔を俯かせた。説明はできない、ということか。頑なに口を閉ざす態度に、僕は車椅子の向きを変えた。
「ま、待って、どこに行くの?」
「公衆電話。上野ミコトが誰か、僕の友人の誰かが知っていてもおかしくないだろ」
「でも連絡先は覚えてないんでしょ? だったら」
確かに、友人の連絡先は電話番号の一つも覚えていない。けれどネット環境があれば確認ができる。親に頼んで調べてもらうか、ノートパソコンでも持ってきてもらえば事足りるはずだ。
引き止める声が聞こえたが、無視して公衆電話の設置してある階に向かうため、エレベーターに乗り込んだ。意外なことに、彼女は追ってこない。自分が上野ミコトだと証明できないと思って、逃げたのかもしれない。
エレベーターが開き、掲示してある地図で公衆電話の位置を確認する。急いで車椅子を走らせ、受話器を握って実家の電話番号を押そうとしたときだった。
階段のある方角から、激しい物音が響いた。病室から入院患者が顔を覗かせ、周囲がざわつき始める。階段から慌てた寝間着姿のおばさんが飛び出してきた。
「女の子が倒れてる! 早く先生呼んで!」
すぐさま、彼女の姿が思い浮かんだ。受話器を戻し、階段に向かう。
「ミコト!」
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