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(7)
桜にそう告げ、にこりと微笑んだ絵笑子の表情が、この街を見守る阿弥陀如来のアルカイックスマイルとダブる。その瞬間、蘇った桜の記憶とオーバーラップした。
脳裏に浮かんだ、大仏の回廊で遭った笑顔と、目の前にいる女性の笑みが桜の中で重なった。
「あ……あのとき、の?」
桜の問いに答えるように、絵笑子はこくりと頷いた。
「憶えてて、くれた?」
桜の意識が一気に幼い日に飛んだ。
遠い記憶。壊れかけたデータはところどころブロックノイズが出たように欠損する。
桜は朧げな断片を脳内で再構成した。
‘だいぶっつぁん’の胡座の下の回廊を巡っていた途中で、女性が佇んでいた。
父は女性と目が合うと会釈を交わした。女性は驚いたように父と桜を見詰め、頭を下げた。
女性の口から発せられた一言が、回廊の壁に反射しエコーが通路を伝っていった。
「娘、さん?」
父が頷く。
それきり、二人の間に会話はなく、父娘と交錯するように女性は回廊の奥へと消えていった。
女性の後姿を目で追った後、桜は父に訊ねた。
「お父さん、あれ、だぁれ」
「お父さんのね、昔の知り合い」
「ふーん」
それだけだった。
だが、桜は、肌で感じていたのだろう。
娘心にも、あの会合は口にしてはいけないのではないか、との気持ちが桜の中に生じ、それきりあの一件は桜自身の躰の奥底に沈めてしまっていた。
一瞬のスレ違いに感じた父とその女性とのただならぬ雰囲気を、桜は幼い体全身で感じ取ったのだろう。
それは、赤の他人ではない、男と女の通じた匂いだったのかもしれない。
当時の父と、この眼前にいる絵笑子がどの程度の仲だったのか、それは桜は知る由もない。
けれど、いま現在、この二人は一緒に暮らしているのだ。
今更問い詰める気もなかったが、桜の内では、父と母が別れた一因にこの絵笑子が関わっていたのではないだろうか、と勘ぐりたくなった。
「その……父とは、どれくらい昔から知り合いだったんですか」
桜の質問は予想されていたのか、絵笑子は躊躇いなく答えた。
「そうね――学生時代からだから、かれこれ20年近いかな」
「20年……」
母・瑞江よりも長く、父はこの女性と既知だったのか。
桜の中に、澱のような疑問が湧いたが、言葉を飲み込んだ。
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