#3 マイ・フェア・レディ

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(6)  朝刊を配るバイクのエンジン音と鳥の囀りで桜はうつつに醒めた。  あまり、というか殆ど眠れなかった。  やはり寝る前に本なんて読むもんじゃない。桜は少し後悔した。  暫く寝床にまどろんでいた桜だったが、まだぼんやりとした頭のまま、むくりと起き上がるとダイニングへと向かった。  朝食の準備をする絵笑子に「おはよう」と挨拶をする。絵笑子も「おはよ」と返す。  大きな欠伸をする桜に気付き絵笑子が「どうしたの? 勉強のし過ぎ?」と声をかける。 「そうじゃないけどぉ、まぁそんなもん」 「どっちなのよ。ふふふ」  気の置けない言葉を交わし、いつもの朝が始まる。  絵笑子が焼いてくれたトーストを受け取りながら、桜は「お父さんは?」と質問した。 「もう出かけちゃったわよ」絵笑子は即答した。「何か用あった? 言付けときましょうか」  父が家を出るのはいつも早いので、朝は桜が起きてくる頃にはもう出掛けてしまっていることが多い。殊に今朝は、夜更かししていたため桜の起床が遅れ、擦れ違いになってしまった。 「ううん、いい」  桜は遠慮した。  このことは、直接父へ訊ねてみたかった。 ――どうして、あの漫画がここにあるの?  それに、特に急ぐ用でもない。  桜は心の棘を棚上げしたまま絵笑子に「行ってきます」と応え、鞄を抱えて玄関口へと向かった。  バス停で待ちながら、桜は昨晩読んだ漫画の頁を反芻していた。  序盤こそあまり馴染みのないSF作品特有の設定の小難しさにとっつきにくさを覚えたが、次へ、次へと頁を繰る毎に物語にぐいぐいと引き込まれ時間も忘れのめり込んでいった。  深いテーマ。巧みな構成。破綻のない完璧なシナリオ。そこから醸し出される情緒。  漫画でこんなに感動したのは、桜にとっては初めてのことだった。  桜は、誰かとこの感激を共有したかった。  けれど、教えてくれた母は、もういない。  物語の続きを語り合えるのは、桜にとっては唯一人だった。  (はや)る気持ちを抑えながら、桜は遣って来たバスに乗り込んだ。 ――きょう、どんなに遅くなっても、お父さんに訊いてみよう。
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