#1 クォ・ヴァディス

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(3)  車を停め、大仏の寺の境内に桜と泰秀は足を踏み入れた。 「滑るから気をつけるんだよ。桜はまだ雪国に馴れてないから」  父は娘に雪の積もる石畳に注意を促しながら先導していった。 「へーきだよぉ」  と桜は応えたが、言いながら足下は覚束なくフラフラとした。  地面ばかりに気を取られていると、正面に『だいぶっつぁん』の威容が迫っていた。  『だいぶっつぁん』は、空の蒼穹を映え、青黒い光沢を放った。  その容姿に白い雪が彩り被り、冬空の中に凛と佇んでいる。  近付くにつれ、桜は顔を上げ、聳える阿弥陀如来像を仰ぎ見た。  思ってたより小さいな、と桜は感じた。  幼い頃見たときは、もっともっと大きかった印象があった。  境内もこんな坐像が鎮座しているには不釣り合いなほど狭く感じる。  それが自分の背が伸びたためだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。  像を見上げていると、幼い頃、同じように見上げていたときの記憶が蘇った。 「あの下、怖い絵が並んでたんだよね」  桜がふいに呟いた言葉に泰秀が反応する。 「憶えてるのか、桜」 「うん。憶えてる」  父娘はそのまま大仏の足下へと歩みを進めた。  桜の記憶どおり、坐像の下には小さな入口が開いており、この場に居る二人を促している。  父は娘に目を合わせると、先に門の中に分け入っていった。  桜も後に従った。  坐像の下は回廊になっていて、この大仏の由来などが掲げられた資料館を兼ねている。  その流れの先に、地獄絵図が並んでいた。  血の池。針山。釜茹で。  絵を眺めつつ泰秀が呟く。 「桜は昔、ここをえらく怖がってたなあ」  幼い頃の脳裏に刷り込まれていた『ここは怖い』という漠然とした気持ちを、桜は再確認していた。  と同時に、桜の中でこの場所に関連づけられていたもうひとつの記憶が朧げに湧き上がってきた。  それは、はっきりとは形を為さない、茫洋としたイメージ。  桜は必死でその記憶をメモリから引き摺り出そうと苦心したが、曖昧なままだった。 ――たしか、ここで誰かと遭った、ような……   誰だったっけ??
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