披露山公園の桜

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披露山公園の桜

その晩、翔は何年ぶりかに実家に泊まった。 翌朝、翔はまだ寝ている僕を叩き起こし、晴れているから披露山(ひろやま)公園に行こうと誘った。 披露山公園は桜の季節に家族で毎年訪れた場所だ。 披露山公園は海岸沿いにある高養寺の奥にある山に位置する。 高養寺は徳富蘆花が書いた不如帰の舞台となったところで、小説のヒロインの名前から浪子不動と呼ばれている。 山頂にある公園は逗子湾・相模湾を一望できる景勝地だ。 駐車場に車をとめ外に出ると、遠くから山鳩の鳴き声が聞こえてきた。 翔は僕を待つことなく公園に入り、脇目もふらず展望台の階段を駆け上っていく。 そう、あの展望台だ。 僕は満開の桜が見守る中、葵にプロポーズするつもりだった。 「よかったら僕と一緒に毎年この逗子海岸で桜を見てください」と。 桜の季節にプロポーズをしたかったのは、これからの人生を母が見守ってくれるような気がしたからだ。 母は桜の季節に生まれ、その季節にちなんで『桜』と名付けられた。 奇しくも、その名前のように美しく儚い生涯となってしまったが、桜が咲くと僕は母に元気づけられているような気持ちになれた。 その日も桜の花びらが僕達を包み込むように舞い散り、これからの人生を優しく祝福してくれるかのように見えた。 だけど――。 僕は葵にプロポーズをしなかった。 その日、葵は僕に初めて自分の過去を明かした。 「5歳の子供がいるの。男の子。前の旦那さんとの子供。私、結婚してたことがあるの。今まで言えなくてごめん・・」 結婚してた? 子供がいる? 知り合って3年も経つのに、そんなこと隠しておく? 今までいくらでも話す機会ならあった。 よりによってなんでプロポーズしようとする直前に言うんだよ。 僕はその日、プロポーズをすることなく、葵に別れを告げた。 翔を追ってゆっくり展望台の階段をあがっていくと、翔以外に人が2人いた。 バタバタ足音をたてて駆け回る小さな男の子と、葵だった。 「私が葵ちゃんをここに呼んだの。葵ちゃんは私が行っているネイルサロンのネイリストさんなんだ」 翔の指を飾っていた金魚や花火のネイル――。 あれは葵が彩っていたものだったのか。
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