6人が本棚に入れています
本棚に追加
披露山公園の桜
その晩、翔は何年ぶりかに実家に泊まった。
翌朝、翔はまだ寝ている僕を叩き起こし、晴れているから披露山(ひろやま)公園に行こうと誘った。
披露山公園は桜の季節に家族で毎年訪れた場所だ。
披露山公園は海岸沿いにある高養寺の奥にある山に位置する。
高養寺は徳富蘆花が書いた不如帰の舞台となったところで、小説のヒロインの名前から浪子不動と呼ばれている。
山頂にある公園は逗子湾・相模湾を一望できる景勝地だ。
駐車場に車をとめ外に出ると、遠くから山鳩の鳴き声が聞こえてきた。
翔は僕を待つことなく公園に入り、脇目もふらず展望台の階段を駆け上っていく。
そう、あの展望台だ。
僕は満開の桜が見守る中、葵にプロポーズするつもりだった。
「よかったら僕と一緒に毎年この逗子海岸で桜を見てください」と。
桜の季節にプロポーズをしたかったのは、これからの人生を母が見守ってくれるような気がしたからだ。
母は桜の季節に生まれ、その季節にちなんで『桜』と名付けられた。
奇しくも、その名前のように美しく儚い生涯となってしまったが、桜が咲くと僕は母に元気づけられているような気持ちになれた。
その日も桜の花びらが僕達を包み込むように舞い散り、これからの人生を優しく祝福してくれるかのように見えた。
だけど――。
僕は葵にプロポーズをしなかった。
その日、葵は僕に初めて自分の過去を明かした。
「5歳の子供がいるの。男の子。前の旦那さんとの子供。私、結婚してたことがあるの。今まで言えなくてごめん・・」
結婚してた?
子供がいる?
知り合って3年も経つのに、そんなこと隠しておく?
今までいくらでも話す機会ならあった。
よりによってなんでプロポーズしようとする直前に言うんだよ。
僕はその日、プロポーズをすることなく、葵に別れを告げた。
翔を追ってゆっくり展望台の階段をあがっていくと、翔以外に人が2人いた。
バタバタ足音をたてて駆け回る小さな男の子と、葵だった。
「私が葵ちゃんをここに呼んだの。葵ちゃんは私が行っているネイルサロンのネイリストさんなんだ」
翔の指を飾っていた金魚や花火のネイル――。
あれは葵が彩っていたものだったのか。
最初のコメントを投稿しよう!