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桜の花びらが年期の入ったベンチに静かに舞い落ちている。鼻を掠めるのは葉っぱと土が混ざり合ったような独特の香りで、でも不思議と懐かしいその香りに僕は安心する。
(こんな場所、あったんだ…)
「はい、ここ。静かに開けてね。じゃないと壊れるから」
彼が錆びついたドアノブを指差す。
その建物の第一印象は、正直言って最悪だった。
完全に廃屋…いいや、百歩譲って古びた校舎とでも言っておけばいいのかな。窓ガラスは透明ではなく白く濁っていて、木の壁は至るところがどす黒く滲んでいる。
どうして取り壊さないの?と感じてしまうレベルだ。
(ここに入るの?)
不思議なことに、「意志描写をしなければいけない」という強迫観念は消えていた。理由は分からないけれど、彼の前では言葉を使わなくとも許されるような気がした。
「開けて」と背後から言われ、僕は言われるがままに木の取っ手に指をかける。
そして、静かに静かに後方へ扉を押した。
ギギ……と音を立て、扉がゆっくりと開かれる。
『すごい…』
無意識に、感嘆の念が口から零れた。
僕は一生涯この瞬間を忘れないだろう。
散乱した画材道具とパレットに敷き詰められたピンクの絵の具。
そして、真四角のキャンバスに描かれた桜の花びら。
春の訪れを知らせる桜がふわり、とキャンバスに色を添えていた。これ程までに胸を締め付けられる絵を、僕はこれまでに見たことがなかった。
キャンバスの上の桜は無彩色ではなく、美しい色を持っていた。
「さて、と。ここなら落ち着いて話せるからいいかなと思って。
とりあえず名前言った方がいい?…俺は真山蒼人。君の名前は?」
(…ま、やま、さん……)
心臓がドキンと跳ねる。
部屋の至る所に散乱している錆び付いた椅子に腰掛けた彼は、「緊張してる?」と言葉を続けた。
僕は「この状況で緊張しない人なんていない」と心の中で呟きながら、灰色の瞳に視線を合わせる。
「喋れないんでしょ?なら書けばいいだけだ。別に意志疎通が出来ない訳ではないんでしょ?」
(……え………、)
人は驚き過ぎると固まったまま動けなくなる生き物らしい。
高まった脈拍数が更に高まって、指先からドクンドクンいう心音が伝わってくる。
……何故僕は、こんなにも嬉しくて仕方ないんだろう?
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