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1.
しっとりとした空気が流れるオシャレな地下バーに響くのは、チョコレートにコーティングされた石榴の種のように、甘さの内に渋みを秘めたテノール。アコースティックギターから転がる優美な旋律、そこに絶妙に上乗せされる歌声は唯一無二の存在感を放っている。
観客は全員が全員、まどろむような表情で見入っていた。私語を交わすテーブルなんて店中見渡してもどこにも無い。
(ああ、なんて人なの)
ちひろは両手を組み合わせて身を乗り出した。
感動のあまりに視界の端が滲んで見える。瞬くと、涙が頬を伝った。
クリアになった視界の中心で、彼が再び輝きを放つ。
何もかもがエキゾチック。神秘的で、誘惑的。はだけたワイシャツからのぞける胸毛も、波打つ黒髪もちょっと伸びた口髭も、異国の太陽を想像させる肌色も。もちろんその凛々しい顔立ちに至るまで、まるで少女の甘い夢が具現化されたかのような完成度だった。
(やだもう、セクシー!)
歌詞はスペイン語なのか、全く意味がわからない。きっとそれは情熱の篭もった愛の囁きに違いない。違いないのだ。
やがて曲が終わり、男性は立ち上がった。
拍手喝采。
ちひろも夢中になって手を叩き合わせた。
男性ははにかむように笑い、両手を翻し丁寧に腰を折り曲げる。興奮冷めやらぬ様子で、観客も立ち上がり賞賛の声を投げかける。
しばらくして横に座る親友が耳打ちしてきた。
「すごいでしょ、オーレリオ・コントレラス。シンガーソングライター、三十二歳独身。生まれ故郷はカリブ海のどっかだってさ。日本じゃあんまり名が売られてないけど、それでも大きなホールとかホテルで演奏するとチケットは完売する。根強いファンがいるのよ」
「うん、うん。すごかった。彼本当にすごいよ、美紀ちゃん」
「オーナーと友達だからって、特別にこんな小さいバーに来てくれたそうよ。感謝してよね! ちひろ、年上好きじゃん。出会いが無い~、って、ぼやいてたじゃん」
美紀はこのバーのオーナーの姪だ。その縁で、ちひろも今回の演奏を楽しむ機会を得られた。大変有難かった。あらゆるストレスを忘れて、この上ない目と耳の保養ができた。
けれどもミーハーと恋は別だ。
「年上が好きとかじゃなくて、同年代の男子がガキっぽいだけ! でも、有名人とどうこうなれるって思ってるわけじゃないよ。純粋に素敵だなぁと思った」
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