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あれは、車窓から望める大岡川の桜が緑色に化ける頃。
上大岡駅から乗ってきたロマンスグレーのおばあちゃんが、席に座る僕の目の前で転びそうになった。僕が脚で挟んでいたハードケースにつまずいたのだ。
幸い顔面ダイブは免れたけれど、僕はせめてものお詫びにと席を譲った。
「ごめんなさいね。両手を出せばよかったのだけれど」
おばあちゃんの手には、花束が抱えられていた。
以来、僕は必ず同じ電車の同じ場所に座る。毎週、平日に一回か二回、示し合わせたようにおばあちゃんと出会っては席を譲った。
偽善だとか罪滅ぼしでしているつもりはない。ただ、おばあちゃんの持っている花が潰れるのは嫌だと思った。
先週は黄色の花束だった。
「初夏らしくていいでしょう?」
おばあちゃんは入院しているご主人のお見舞いに行くんだという。抱かれた花はとても幸せそうだった。
僕はおばあちゃんに名前を聞かれた。
「えっと……ヨシです。漢字は『不良』の良」
今時っぽくないこの名前が、僕はあまり好きではなかった。
「『善良』の良ね。素敵な名前だわあ」
おばあちゃんは目元に縮緬皺を寄せる。あと四十年早く出会ってたら、きっと惚れていただろう。
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