エピローグ

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誰にも大切な思い出がある。 けれど、何らかの原因でそれを忘れてしまうことはよくある。 私の師は生前こう言っていた。 忘れていた記憶を呼び覚ますのに、最も必要な五感は何だと思う? それは嗅覚だ。 五感の内、他の視覚・聴覚・触覚・味覚は脳の視床という部分を通って、視覚野などそれぞれの情報を把握する部分へと運ばれてく、だが、嗅覚だけは記憶を司っている大脳辺縁系に直接届けられるからだ。 ダイノウヘンエンケイ?私の脳裏には、その聞き慣れない単語がカタカナになって、浮かんでいた。 師は続けた。 プルーストの有名な小説『失われた時を求めて』の一節にこんな言葉がある。「ふと口にした、紅茶に浸したマドレーヌの味や香りから、幼少期の夏の休暇を思い出す…。」 そこから、匂いが古い記憶を呼び起こす現象を「プルースト現象」というんだ、と。 師が生きていた頃のことだから、もう十数年も前のことだ。 革の眼鏡ケースから眼鏡を取り出す時のあの何とも言えない皮革の臭いが、ふと師の言葉を思い出させたのだ。 「こんばんは」 私がぼんやりとしていると、狭くて昼間でも暗い路地を抜けてやってきたのだろう、店の扉が開いた。 「いらっしゃい。さて今日はどんな香りをお望みでしょうか」
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