1

1/3
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

1

 上大岡駅、京急線と横浜市営地下鉄の乗り換え口に、今日もその人はいた。名前も、歳も、どこに住んでいるのかも知らない。けれどやっぱりその人は今日もいた。 「おじさん、今日もいる」  ぼそっと呟いた香織は、京急の改札を出て地下鉄の改札に向かう、小さい広場のようなスペースを足早に歩きながら、そのおじさんを横目で見た。おじさんは、器用にバルーンアートを作っては、道行く人に配っている。  配っていると言っても、利用客の8割は見向きもせずに通り過ぎる。他の1割9分は怪訝そうな表情を浮かべ、たまに子どもたちがバルーンアートを求めて駆け寄って行くのが残りの1%だ。駅で勝手にこんなことをしていたら、駅員か誰かに咎められそうな気がしなくもない、と香織は思ったが、毎日いるから問題はないようだ。  思い出したように腕時計を見て、そんなに急がなくても2限の授業開始には間に合うことを確認した香織は、階段を降りた。神戸屋でパンを選び始めた頃には、香織はそのおじさんのことはもう忘れていた。  佐久間香織は、神奈川県内にキャンパスを構える、世間には名の知れた大学に通う大学2年生だ。京急線南太田駅のすぐ近くにある実家から、毎日京急で上大岡まで出て、そこで地下鉄に乗り継いで大学に通っている。  京急の南太田は各駅停車しか停まらないのに、京急の新逗子行きや浦賀行きに何度か乗ったことのある人ならば、それはつまり多くの横浜市民は、ということになるのだが、必ずと言っていいほど名前を聞いたことのある駅だ。というのも、普通電車がホームに来る時は大抵、「南太田で快特の通過待ちをいたします」という決まり文句がアナウンスされるからだ。南太田駅には線路が2本あって、ホーム側の線路に普通列車が停まっている間に、エアポート急行や快特の電車が隣の線路で通過していく。南太田ユーザーは停まっている普通列車の窓から急行電車が過ぎていくのをただただ見送ることしかできない。エアポート急行は次の井土ヶ谷や弘明寺には停まるのに、だ。  とはいえ香織は、京急と地下鉄を乗り継いで通うキャンパスライフを、けっこう楽しんでいた。折り紙サークルに所属して、週2回、火曜日と金曜日の夕方5時から、空き教室を利用して活動中だ。 「やっほー!」  そう言って今日も香織は勢い良く教室のドアを開けた。 「あっ香織!早くこっち来て!見てよ!」
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!