シナガワ2101

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「二度目の東京オリンピックから30年くらいは、まだハネダにも飛行機が飛んでたんだよ」  シナガワの旧市街にあるバー。隣に座っていた老人は、目尻のしわをさらに深くして嬉しそうに話しかけてきた。  僕と美紅(みく)は、待ちに待ったハネムーンに旅立つためシナガワにやってきた。一年前、ミレニアムの年に籍だけは入れたのだけれど、新婚旅行はお互い仕事の予定が合わずタイミングを逃しつづけていた。  目的地はカリフォルニア。6年前に二人が出会った地を巡る旅。そんな美紅の提案に僕は一も二もなく賛成した。そしてもう一つ、ナパバレーのワイナリーへ向かう観光列車で、僕らはささやかな式を挙げることにした。乗り物好きとワイン女子のカップルには、この上なく素敵な演出に思えたのだ。  出発時刻までまだ2、3時間ほどあるので、旧東海道沿いのオールドタウンまで散策に出てみることにした。夕暮れ時のこのあたりは、昭和や平成の面影を残す街並みの懐かしさと、シナガワ中心部の喧噪から離れた場末感とが相俟って、不思議と人を惹きつけてやまない雰囲気がある。 「このバー、やってるのかな。良い感じじゃない?」  美紅がめざとく見つけたのは、地元の常連客らしき人たちが集う一軒。看板もないこの昭和スタイルのバーで、軽く一杯、グラスを傾けながら旅の前途を祝してみるのも悪くない。  真鍮の取っ手を引き扉を開けると、わずかに湿った埃っぽい空気が流れて出てくる。バーテンダーに促されるまま座ったカウンター席に、その老人はいた。  軽く会釈をしてから背の高い椅子に腰掛けると、彼は人懐っこい笑顔をこちらに向けてきた。  ひとまずその視線をやり過ごし、店の中を見回す。所狭しと並べられたボトルは、ジンだけでも20種類はあるだろうか。Plymouthの珍しいラベルも見え隠れしている。バーテンダーのこだわりか。あるいはなかなかに口うるさい常連客たちの仕業だろうか。 「ワインはナパまでお預けにしよっかな。うん、私モヒートに決めた」  美紅の呟きを聞き逃さず、老人が話しかけてきた。 「これから、海外にお出かけかな?」  僕らがサンフランシスコに向かうと聞くと、彼はジンの匂いと漂わせながら、ハネダに飛行機が飛んでいたころの話を語り始めた。 「ほんの50年くらい前までは、サンフランシスコにもハネダから旅客機が飛んでたんだよ」
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