シナガワ2101

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 ハネダといえば、現代(いま)では800メートル級のタワービル群が空への近さを競う、宇宙への玄関口。世界でもまだ四ヶ所しかないスペースポートのひとつだ。  そんなハネダにも、前時代の旅客機がジェットエンジンの爆音をとどろかせて離着陸を繰り返していた時代があった。その頃の思い出を、彼は懐かしそうに語り続ける。 「あれはまだ小学校の頃だったか。ジョーナン・アイランドは漢字で城に南と書いてな。倉庫街の向こうになーんにもない公園があって、近所のガキどもとよく自転車こいで野球をしに出かけたもんだ。空港を望む海沿いの芝生に寝転んでは、787や380の腹を見上げる。ゴオーっとカミナリのような音が腹の底に響いて、でっかい鉄の塊がすぐ真上を飛んでく。想像できるか?そりゃあ大迫力なんてもんじゃあない」  ひとしきり飛行機の話が終わると、彼は身の上を語り始めた。  2011年の暮れに生まれたというその老人は、中高時代は地域でも名の知れた野球少年だった。不幸にもケガでプロ野球選手になる夢を諦めたのち、鉄道関係の仕事に就いたそうだ。少年時代、父親と一緒に電車に乗るのが何よりも楽しかったことと、鉄道に未来を感じたことがその理由だという。  仕事を引退してからというもの、このシナガワの場末のバーに毎日のように通い続け、カウンターの左端でお気に入りのジン・ライムをちびちびやっている。ジン・ライムなどという20世紀風のカクテルを頼むのは、この店でも彼しかいない。それが彼のちょっとした自慢らしい。明るいうちからカウンターの指定席に座り、棚に飾られた年代物の赤い模型の電車を眺めては、隣に座った客に自分の昔話を聞かせるのを楽しみにしている、などなど。  ふと右隣に目をやると、美紅は退屈そうにグラスの氷をストローでつついていた。  二人きりでこれからのハネムーンに思いを馳せようとしていたはずが、見ず知らずの老人から小一時間も身の上話を聞かされては無理もない。 「もう7時過ぎてるじゃん、そろそろ行かないと乗り遅れちゃうよ」  低くささやくような声だが、もちろん僕の耳にはハッキリ届いている。むしろ声に出さずとも、彼女のその憮然としたオーラは確実に伝わって来る。  しかし僕は、その老人の話をもう少しだけ聞いてもよい、いや聞きたい気分になっていた。
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