その子どもは運命を分かつ

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       ◆ ◇ ◆ ◇  夏亥(オレ)がその子どもと会ったのは、巳冬との試合を一週間後に控えた土曜日のことだ。  ロードワークのさなか、突然の土砂降りに見まわれ、慌てて駆け込んだコンビニの軒下。厳しい減量と行く手を阻む通り雨への苛立ちを隠しもせずに舌打ちするのとほぼ同時に、近くでバシャバシャと水を蹴る音が聞こえた。  この雨だ。堪らず雨宿りするヤツは他にもいるだろう。わざわざ音の主を確認するまでもない。  近付く気配に気を留めることなく、ずぶ濡れの服の裾を絞っていたところ、ふと視界に黒いものが飛び込んだ。  カラスか、黒猫か、はたまたコウモリか。いずれにせよ、どこか縁起が悪そうな動物を続けて想起するのみならず、一瞬でも凶兆として不安を覚えてしまった自分が情けない。 (クソッ)  弱気になったことに胸中で毒吐く。  結局、実際にオレの隣に駆け込んだのは動物ではなく、新月の夜のように真っ黒な傘を差す子どもだった。 「ひゃー、すっごい雨!」  傘の持ち主は嘆きというよりかは純粋な驚きの声を発しながら、ビショ濡れの傘の水滴を払う。 (煩ぇな)  うんざりと横を一瞥すれば、そこには小学生高学年くらいの子どもがいた。  べっこう色と樹皮っぽい色のツートンカラーの肩まである髪が、走ったせいで乱れている。  性別はイマイチハッキリしないが、髪に隠れたせいでわずかしか見えない横顔と高めの声質から推測するに、女の子だろうか。 「うへぇ、クツがビッショビショだぁ。ゲ、前もビッショリ!」  水たまりを踏んだらしい泥だらけのスニーカーと、横殴りの雨で濡らしたハーフパンツに嘆く子ども。そのあまりの騒がしさに、感情を隠すことなく眉を顰める。減量中のストレスフルな状態では、人の声も気配もひどく気に障った。  それとなく子どもから遠ざかろうと横にずれるも、どうやら裏目に出たらしい。オレが動いた気配で子どもがこちらに振り向き、あ、と声を上げる。 「おじさん、ここのところずっと、すっごくがんばって走ってる人だよね。ボク、おじさんのこと、よく見かけるから知ってるよ。なにかの試合があるのかな」 「……ああ」  蝙蝠傘を丁寧に畳みつつ、オレのすぐ隣に並び立ったその子が気さくに話しかけてきた。  正直、飢餓感で心中穏やかならぬ今、愛想なんて振りまけず、テキトーに相づちを打つ。  だが、相手はこちらの剣呑な様子など知ったこっちゃないようだ。見知らぬ大人相手にカケラも警戒せず、思い付いたことをそのまま質問したり、矢継ぎ早にしゃべり続ける。 「おじさん、よく走るからマラソン選手?」 「一回にどのくらい走るの?」 「雨、たぶん、すぐにやむと思うよ。だって、あっちの空は青いもん」 (うるせえな。もう少し雨が落ち着けば、こんなガキなぞ放っていけるのに)  子どものペラペラと飽きもせず繰り出されるおしゃべりにウンザリし、これみよがしに舌打ちする。  ――もう喋りかけるな、の意を込めて威嚇すれば、黙るかもしれない。そうなれと願うも、無情にも雨の音が舌打ちを掻き消した。 「おじさんがなんの選手か、ボクにはわかんないけど、良い試合ができるといいね」  真っ直ぐにこちらを見上げる無邪気なその顔が、何故だが無性に腹立たしい。  『なんの選手かわかんない』のは、オレが無名だからだ。  『良い試合』というのは、一体、どんな試合なのだろう?  『できるといいね』なんて、間の抜けた口調で言われても、励みにもなんにもなりはしない。  沸々と、得体の知れぬ憤りが込み上げた。  早く何処かに行けよ、とはあどけない子ども相手には流石に言えず、無言で睨むこと五分。その子どものしつこさに、オレはとうとう観念した。
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