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「オレはボクサーだ。っても、首の皮一枚しか繋がってねえけどな」
初めて返事らしい返事をしたオレに、子どもは破顔する。
「そうなの? おじさん、ライオンみたいに強そうだけどな」
『ライオンみたい』――そう言われて思わず噴き出したのは、子どもが明らかにオレの頭髪を見ていたからだ。
強そうに見えそうだからと金に染めた髪は、手入れもしていないからボサボサで、それがライオンのタテガミみたいになっているのは自分でもわかっていた。
(強けりゃ、会長に後がない、なんて言われねーよ)
我ながら情けないことを親代わりの会長に言わせてしまったものである。
オレの苦い胸の内など知るよしもなく、子どもは「ああ!」と手を打つ。
「負けられない戦いってやつだね! だから、おじさん、すごくがんばって走ってたんだ」
「確かに、何がなんでも負けられねえ。だからこそ、オレは次の試合に全てを懸けるんだ」
「〈全てを懸ける〉」
「うん?」
全てを懸ける――オレの発言を聞いた途端、それまでは表情豊かだった子どもの顔から表情が抜け落ちた。
その変化があまりにも突然だったもので、オレは思わず息を呑む。
(なんだ、コイツ? 急に虚ろな顔しやがって)
感情の読めない能面のような表情になった子どもは、見開いた目をこちらに向け、まばたきひとつせず凝視する。
「ねえ、『全て』ってどれだい?」
子どもらしい高い声だが、その抑揚のない問い掛けは何処かロボットを思わせ、あまりの異質さに薄ら寒さを感じた。
「す、すべて……は、すべて、だ。オレの持ってるモン全てを懸けて、この試合に勝って、まだボクサーを続けるんだ」
そうだ。オレはオレの持つ全てを懸けて、この試合に臨まなければならない。
家族はいない。学歴も低い。頭も悪い。一時は落ちぶれて、悪いことにも手を染めた。
そんなオレに手を差し伸べて、ボクシングを教えてくれたのが会長だ。
オレにはボクシングの道しかない。この道を絶たれたら、オレは生きていけないから、だから、全てを懸けるのだ。
ザーザーと激しい雨音が耳に響く。
隣で佇む子どもは、人形のような感情のない顔のまま暫くオレを見上げていた。
「〈全て〉。おじさんが〈全てを懸ける〉なら、〈絶対に勝てる〉よ」
子どものどこまでも無垢で、ひたすらにまっすぐな目が、オレの姿を捉える。
雨音は未だに煩わしいほど煩いのに、その子どもの決して大きくはない声は、奇妙なまでにしっかりと聞き取れた。
「〈全てを懸ける〉、〈絶対に勝てる〉」
それらの言葉は脳内で幾度も幾度も繰り返し再生され、やがて、脳から心臓の辺りに流れ落ちて力へと転じ、心臓から全身へと巡っていくような気がする。声に出して唱えれば、力はより確実なものになるように感じられた。
なんだ、この感覚は。本当に、全てを懸ければ、アイツに勝てる気がする。
「うん! おじさん、こんなにがんばってるんだもん。絶対に勝つよ。ボク、応援するね!」
「お、おう! ありがとよ」
『応援するね』と告げた子どもの表情や声からは、さっきの得体の知れない様子はすっかり鳴りを潜めていた。
「あ! もうこんな時間! サクちゃんとの待ち合わせに遅れちゃう。おじさん、それじゃあね。試合がんばれ!」
店内の時計で時間を確認した子どもは、慌てて蝙蝠傘を広げ、土砂降りの中を果敢にも駆けて行く。
まるで嵐のようなヤツだったな、と苦笑しながらオレは口の中で呟いた。
――全てを懸ければ、絶対に勝てる。
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