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◆ ◇ ◆ ◇
巳冬がその子どもに会ったのは、とある雨上がりの日曜日のことだ。
丁寧に編み込んだ黒髪は絹のように艷やかで、着ている服も仕立てが良い。如何にも、良い所のお嬢ちゃんといった風体の、十歳くらいの子ども。
ランニング中に踏んだ水溜まり。その飛沫を彼女に引っ掛けてしまったのが、出会いのきっかけだ。
「綺麗な服なのに、汚しちまって悪かった。ごめんな」
小さくとも女というのは、キレイに拘る。そういうことを長い付き合いのツレにみっちり叩き込まれたから、相手がたとえ子どもでも潔く謝るに越したことはない。
謝って、応急処置で服に付いた泥汚れを落としてやったから、ほら、子どももホッと安心した顔をしてくれた。
「そう。おじさまはボクサーなのね。もしかして、今はダイエット――じゃなくて、減量というのよね――その最中なのかしら? 随分と大変そうだもの」
最寄りの公園にて、服の汚れを落として乾燥を待つ間、暇潰しをしたかったのだろう。その子に職業を尋ねられたので、ボクサーと答えたところ、『大変そう』と返された。
(まいったな。ダサいところを見られちまった)
減量は確かにキツイが、疲弊を子どもに感づかれるなんて格好悪い。
「そんなに大変そうに見えるかい」
苦笑混じりに問うと、子どもは両手の人差し指で自分の両頬に線を描いてみせる。つまり、頬が痩けてるから、余計に疲れて大変そうに見えたってことらしい。
「俺の顔を見て減量中とわかるとはね。お嬢ちゃん、随分と賢いな」
「ありがとう。口数が少ない人に慣れているの」
この子は小学生高学年くらいに見えるが、随分と大人びた態度と話し方をするものだ。
(やっぱり、相手が何歳だろうと女には敵わねえな)
俺が内心で舌を巻いているとは露知らず、女の子は肩から提げていたカバンの中から一冊の黒い本を取り出した。
「読書かい? そんな分厚い本を読めるなんて、凄いな」
「残念。読書ではなく占いよ。私が出来るお礼はこれしかないから」
お礼なんてされる謂れはないのだけれど。そんな俺の疑問を尻目に、彼女は無造作に本を開く。
「お礼というのはね、服の汚れをとても丁寧に落としてくださったことに、よ。あら……まあ」
こちらの疑問を誤らずに察したらしい子どもは、澄まし顔で答えた。そして、おもむろに開いた本の頁に目を通して、神妙な顔をして見せる。
「崖っぷち」
本の頁を指でなぞりながら告げられた言葉は、まさに俺の現状だ。思わず、息を呑む。
「おじさま、次の試合は負けられないのね」
「よく当たるね、君の占いは。次に負けたら、俺のボクサー人生はお仕舞いらしい。けどな、負けるつもりはない。俺の全てを懸けてでも、アイツに勝つ」
「全てを懸けて……ね」
『全てを懸けて』
そう告げたと同時に、子どもの手許からパタンと音がした。本を閉じる音だ。
おもむろに子どもの様子を窺うと、小さな両手に閉じた本を挟んだ格好の彼女が、神妙な顔でこう尋ねる。
「ねえ、『全て』とは、どれのことかしら?」
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