その子どもは運命を分かつ

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 ――『全て』とは、どれ?  そう尋ねる子どもの顔からは、ついさっきまで見せていた、賢くておしゃまな女の子の表情がすっかり鳴りを潜めていた。  人の心をいとも容易く見透かし、未来や運命さえも見通しそうなその赤銅色の瞳が、ただジッと俺を見据える。まるで、閻魔大王の裁判に掛けられているような心地だ。 「全て……すべてって……」  哲学じゃあるまいし、全てといったら、全てじゃないか。なにかの一部だけとか、どれかひとつとかじゃなく、だろう。  だが、俺の言う『全て』とはこうである、と相手に答えたくても、何故かそれを口に出すのが怖かった。  こちらが言い淀んでいることで、何か、察したか。子どもは「いいかしら、おじさま」と静かに口を開く。 「貴方が『全て』という言葉を出すのを躊躇う内は、こんな、何を示すのかも曖昧なものを懸けて、ことにあたるべきではないわ。『全て』という言葉は、曖昧なだけに恐ろしいものなのだから」  年不相応に悟りきったように説教する彼女に気圧されつつも、俺は緩く首を横に振った。 「でも、それくらい全力を尽くしてアイツに挑まないと、俺は負けちまうよ」  夏亥と俺の実力は互角だ。そして、アイツのジムにも顔出ししている記者から聞いた話では、アイツも背水の陣だと言う。ならば、アイツだって、それこそ全てを懸けてでも、俺との試合に臨む筈だ。 「そうね。全力を尽くすのならば、まだ救いはある。けれどもね、どんな事情があろうと、やっぱり『全て』なんてもの、そう容易く懸けちゃいけないわ」  パタン、パラパラ……  少女がおもむろに開いた本の頁が何枚か、音を立てて捲れていく。それを彼女は無作為に手で止めて、開いた頁を見遣った。  隣から頁をこっそりと窺うも、そこには文字列がぎっしりと詰まっているわけではなく、斑に文字がばら撒かれているようにしか見えない。  けれど、彼女にはその歪な頁に何かを視たらしい。眉間に皺を寄せて、苦々しげに告げる。 「何かを懸けるということは、何かを失う危険もあるということ。そして、全てを懸けるのは、何も自分だけではないかもしれないことを忘れないでね」  冴えない顔をして彼女が浮かべた笑みはどこか苦しげで、折角のキレイな顔が台無しだ。 「なあ……なあ、お嬢ちゃん。もしも、俺の対戦相手が全てを懸けるとすれば、その全てって、どれだろうな?」  ボクサー人生の全てを懸けるのか?  それとも、自分の持つもの全てを懸けるのか?  それとも……それとも……もっとそれ以上の……  パタン! 「!」  強かに閉ざされた本の音に、俺は肩を震わせる。  慌てて隣を見遣れば、少女は本をカバンに仕舞い込み、立ち上がった。 「長居しすぎてしまったわ。おじさま、ご親切にお洋服の汚れを落としてくださってありがとうございました。おじさまのご武運と、幸運をお祈りします」 「お、おう。気をつけてね」  一番聞きたかった質問の答えをはぐらかされたが、聡い彼女のことだ。俺は答えを聞かずにいた方が良いのかもしれない。  パタパタと走り去る子どもは、公園から出る前に、一度こちらに振り向く。 「おじさまにとって勝ちとは、次に臨む試合に負けないことだけなのかしらね」 「え……?」  俺が答えに困っている間に、彼女はペコリとお辞儀をして、今度は振り向くことなく去って行った。  全てを懸けるとは、なにを懸けるのか。  夏亥もなにかを懸けるつもりなのか。  俺にとっての勝ちとは、なんなのか。  結局、どんなに考えても答えは出ず、俺はたくさんの疑問を胸に抱いたまま、夏亥との試合に臨んだ。
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