第1章

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平和島の競争水面が、初夏の眩しすぎる日差しを鈍く照り返す。 もう、これしか手はない。と、和夫は思う。 五千円で舟券を購入する。 これで全てがなくなった。負けたら、川崎の自宅までだって 歩いて帰らなければならないし、日当が入るまでは飲まず 食わずになる。 それはそれで自分への罰としてもよかろう、とも和夫は思う。 下手な予想は立てなかった。 明日の結婚式の日付。6月12日。 6・1・2を買う。 一点買いだ。 家を出るときからどこか気になっていた連番だった。今日はまだ 一度も出ていない。 配当を確認する。もし、この並びでゴールすれば40万円近くの 金になる。そこそこの金だ。 だが、裏を返せばそれだけ来づらい着順ということになる。 特に先頭の6番は、まだキャリアの浅い長友という選手だった。 若くなかなか思い切りのいいレースをする。期待できる男だった。 ただ、この選手が他のベテランレーサーを従えてフィニッシュする とはさすがに予想しづらかった。 隣にいた男が、和夫の持っている一点買いの舟券を覗き込み、 吹き出している。 確かに、笑い出してしまいそうな舟券だ。 選手が入場する。 この日最後に行われるカップレースに、スタンドから声援が上がる。 緑色のジャンパーを着た6番の長友は、頼りなくも見えたし、何かを やってくれそうにも見えた。 (頼むぞ、長友) 和夫は拳を握り、心の中で叫んだ。 レースが始まる。 初めのターンの入り方は悪くなかった。大外から長友が大胆に切り 込んでいく。 よし、思わず大きな声を上げてしまう。 しかし、並びは1・6・2の順だった。競艇の場合、よほどのミスがない 限り、最初のターンの順位で確定することが多い。半世紀近い ギャンブルの経験で、和夫にはそのことがよく分かっていた。 ストレートでは前のボートに離されないようにするのがやっとだ。 スタンド前に来たところで、大きな歓声が上がる。和夫は思わず 歯噛みをする。 いよいよ最終ターンに入る。 和夫は目をつぶり、両手を合わせた。 先程とは違う歓声が上がる。スタンド席を揺るがすような この日一番の歓声が、地響き並みのウェーブになって通り 過ぎていく。 ボートの走りに合わせて、狂騒の渦が移動しているのだ。 和夫の肩を叩く者がいた。 目を開けると、和夫の舟券を覗き込んで笑っていた男だった。
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