第1章

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 川崎りつは、駅のホームから夜空を見上げた。星空でも見えれば多少の慰めにもなったが、あいにくの曇り空だった。しかし、例え晴れていたとしても、そこには故郷ほどの星々は煌めいていない。  品川駅で、電車の到着を告げるアナウンスが鳴る。品川から新馬場への帰路に着くりつは、目を伏せるとため息をついた。今はとにかく、帰って眠りたかった。連日の残業にりつは心身ともに参っていた。短い睡眠時間でも仕事に支障はないが、それが連日続くと、そのうち不意にポカンと開いた穴に吸い込まれるようにして意識が遠のく。今日もりつは、新馬場で降りるはずが、うとうとしたまま一駅乗り過ごしてしまった。涙も出るような、うんざりする夜だった。 「おはようございます」  りつは、出勤後すぐに、担当係長である西に前日までの進捗報告をする。進捗は滞っていた。 「どうするの、これ?」  西は冷たく厳しい上司だった。しかし、言うことはいつだって正しい。そんな西に問い詰められるたびに、りつは自身が無能であると責められる気持ちになる。  りつは席に戻った。隣には空席があった。  小林めい――彼女は、昨年度の終わりから長期休暇中だった。課内では行方不明と噂されている。この一か月、彼女がいてくれればこの生活はどんなに違うだろうと、りつは思わずにはいられなかった。しかし、不在のめいの代わりに、彼女のデスクには彼女が処理するはずだった書類が山のように積みあがっている。りつは書類の山に手を付け始める。  りつが書類に手を伸ばすと、デスクの受話器が鳴り響いた。  条件反射でそれをとると、もしもしと言い終わる前に、 「何をしてるんですか?」きつい口調が、りつの耳に飛び込む。  電話の相手はりつを責める文句を並べたてた。特にショックも受けない。いつものことだった。  取引先の東は、いつも一方的に代表電話の窓口であるりつに文句をまくしたてる。返送の必要がある書類が未だ届かない旨のクレームだった。  しかし、調べると実は東の確認ミス、なんてことはざらだったにあるが、言い返すと、何を言われるかわからない。りつは思考を停止して「申し訳ありません」とただやり過ごす。その雰囲気を察して周囲の上司も同情の目線を向けるが、誰も手を貸してくれない分、かえって煩わしかった。
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