第1章

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「今朝のさ、『ここは大丈夫』って、なんなの? それに、電車に飛び込んだ話も」  めいはりつの顔を見つめ、困ったようにはにかむ。 「こんなところで会えるなんて、思ってなかったな」  めいは足元の小石を蹴るような仕草で、おどけたように右足で空を蹴る。  すると、周囲の雰囲気が一変した。先ほどまでまばらに人々の往来があったが、途端に誰もいなくなった。  りつは既視感を覚えた。今朝と同じだと思った。  りつの目の前では、アナウンスより先に電車がホームを通過し始めていた。りつは、再度現れたアナウンスの無い電車に驚く。 「ここはさ、私に優しい世界なんだよね」  めいは通過し続ける電車を見つめている。 「どういうこと?」りつは尋ねた。 「仕事がさ、ずっとうまくいってなくてね」  めいは恥ずかしそうにうつむく。 「私さ、一人だけ東京に来たじゃん。初めての社会人生活で右も左もわからない中で、同期も身近にいないからよりどころがなくてさ。失敗したり、怒られたりする中で、自分ってなんて駄目な人間なんだって思えてきちゃってさ」  めいの独白を聞いて、りつは意外に思った。めいは同期の間でも優秀だと評判だった。同期で一人東京に行ったこともさることながら、飲み会の席でのあか抜けないが可愛らしい笑顔、同期の愚痴を前に建て前と本音を織り交ぜフォローする気遣い。どことなく人の良さがにじみ出る、明るい雰囲気。彼女の振る舞いが、みんなにそう感じさせた。そんなめいが、東京で苦労するとはりつにはとても思えなかった。 「二ヶ月くらい前にさ、すごく嫌なことがあって、西さんにこっぴどく叱られちゃってさ。いや、それ自体は毎日のことなんだけどね」めいは自嘲地味に笑う。 「ハンカチをね、とられちゃったの。同期がいない中で、それだけが心の支えだったんだけど。しかも、後で返してくださいって言いに行ったら、失くしちゃったって」  りつは、今朝駅でハンカチをひろったときのことを思い出す。 「それを聞いたら、なんかどうでもいいやって思えてきちゃって。それで、会社の帰りに駅のホームでぼーっとしてたら、アナウンスに無い電車が目の前を通過していった。びっくりした。でも、なんだかその電車に呼ばれてるような気がして、えいって飛び込んでみた。そして、気づいたらここにいたの」  りつは、めいの身に起きた話と、今朝の自分の身に起きたできごとを重ね合わせた。
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