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「夏への扉」
和服のことには詳しくなくても楓は紅く染めるということくらいは分かるだろう。しかし、その藤紫の友禅の裾模様には常盤色(ときわいろ)と呼ぶべき深い緑の楓があしらわれ、どこか都会的で上品な雰囲気を醸し出していた。
建築家の岬 光太郎は、その日の演目に合わせたかのような和服姿で隣の席に座った美しく可憐な雰囲気の女性に心を惹かれていた...
手元のパンフレットによれば称名寺薪能は、横浜の金沢ゆかりの能「六浦(むつら)」を称名寺で行いたいという地元有志の願いから始まり、今では毎年ゴールデンウィークの最後を飾るイベントとして定着してるとのことである。
演者も櫻間右陣や野村萬斎という当代きっての人気能楽者が演じることからもこの薪能の人気のほどがうかがえる。
光太郎が能に興味を持ったのは10年ほど前で、住宅設計を依頼してきた客が能楽関係者だったこともあって勉強のために見ておこうという程度の気持ちからだった。
それまで全くの門外漢ではっきり言えば能楽には全く興味もなかった光太郎であった。が、実際に見てみると禅にも通じるその虚飾を排し洗練された美しい世界に魅了されてしまい、今ではすっかり能の虜になり年に何回も能楽堂へ足を運ぶほどになった。
中でも薪能は舞台照明のなかった時代の雰囲気をそのまま味わえることもあって光太郎のお気に入りである。
今回の称名寺薪能の次第は次の通りである。
一、連吟 放下僧
二、連吟 六浦(むつら)
三、火入れ式
四、仕舞 放下僧
五、仕舞 六浦(むつら)
六、狂言 魚説法
七、能 楊貴妃
連吟(れんぎん)とは、能のクライマックス部分のみを数人が本舞台に座り謡うだけの地味なもので光太郎のようにまだ能にさほど詳しくない者にはまだまだ楽しめるようなものではない。
まだ陽が完全に沈まぬうちに始まった称名寺薪能も夜の帳(とばり)が群青から漆黒に変わる頃、かがり火に火を点す「火入れの儀式」が始まった。
ここで雰囲気は一気に盛り上がり観客もようやく薪能へ来た実感が湧く。
そして本舞台では能のダイジェスト版とでもいうべき仕舞(しまい)が始まる。
仕舞は面(おもて)も装束も付けない紋付き袴だけのシテと、囃子方(はやしかた)と呼ばれる楽器類のない地謡(じうた)と呼ばれるコーラス形式の謡(うたい)だけでクライマックス部分を演ずる演能形式である。
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