第1章

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 演目は連吟と同じだが通好みで地味な連吟に比べると変化のある舞台は能にさほど精通してない光太郎でも楽しめる。  連吟と仕舞の演目はどちらもこの金沢を舞台にしたもので、一目目は金沢八景の瀬戸神社を舞台にした「放下僧」、二目目はこの称名寺に生える常緑の楓に宿る精霊を題材にした「六浦(むつら)」である。  光太郎は先ほどから心惹かれている隣の女性に目を向けた。  揺らめく薪の明りに浮かび上がる横顔が、地謡に合わせるようにパチパチとはじける薪の音と相まって、光太郎を否が応でも幽玄の世界へ導いていく。  この女性は薪能を鑑賞するにあたり「六浦」に合わせた常緑の楓をあしらった藤紫の友禅をあつらえてきたのだ...光太郎はそんなことを思いながら特別な存在感を放つ、その美しさと可憐さが同居する彼女に益々興味を惹かれていった。  萬斎による狂言「魚説法」が終り会場はかがり火の中、しばし緊張がほぐれたようにざわついている。  光太郎はチラッとその女性を見た。  彼女も光太郎の視線に気づき顔を向けて口元に笑みを浮かべ軽く会釈をした。  と...次の瞬間、光太郎は思わず声をかけていた。 「...あ、あの...今度、改めてお会いできませんか!? あなたとゆっくりお話がしたいんです...」  !!!...うわっ、やっちまった!なんてバカなことを!  光太郎は思った。  漆黒の闇の中、彼女の笑顔を照らし出す揺れる篝火(かがりび)の妖しい魔力が自分に思いもしない大胆な行動を取らせた...光太郎は自分自身に対してとっさにその軽率な行動の言い訳をした。  おそらく、彼女は呆れているだろう。  能を鑑賞に来て、たまたま隣り合わせになった男がナンパしてくるなんて...背筋を伸ばし凛とした美しい佇まいのその人は、揺らめく薪の明りに映し出されながらその大きな瞳で光太郎を見つめ口を開いた。 「ごめんなさい!失礼ですが、あなたはいつもそうやって女性を誘っているのですか!?」  よどみのない言葉と清々しいその声には誰もが素直な気持ちで返事をしてしまうような不思議な力を持っていた。  彼女はしばらく光太郎を二重のまなざしで真剣に見つめていたが、急にニコッとしてから何事もなかったかのように再び能舞台へ視線を戻した。  光太郎は慌てて弁解のような謝罪をした。
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