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「あっ、いえ、こんなこと初めてなんです。謡(うたい)と薪の揺れる明りの雰囲気に当てられてしまって...本当に失礼しました。忘れてください!」
『あ~ぁ~、やっちまった!』
光太郎は後悔した。
この後、気まずい空気の中で過ごさなくてはならない。
「...いいえ、申し訳ありませんがそれは無理です。...しばらく先になりますがよろしいでしょうか?...7月8日の午後1時...で構いませんか?この同じ場所でお待ちしております。」
「!?」
その女性は舞台から視線を外さずに、思いがけない言葉を口にした!
光太郎はよもやそれが自分へ向けられた言葉であるとは信じ難く思わず聞き返してしまった。
「...えっ!? あ、あの...」
女性は再び光太郎に目を向けると声は出さずに『よろしく』と唇だけを動かし再び本舞台へ視線を向けた。
光太郎は一瞬ぽかんとしたが慌てて彼女が指定した日時をスマホのスケジューラーに打ち込んだ。
それはまるで夢と現(うつつ)の間(はざま)、まさに幽玄の世界へ迷い込んだかのような不思議な感覚だった。
すべての演目が終わり帰りかけた時には既にその女性の姿はなかった。
光太郎が隣に座っていながらそれに気づかなかったのは、もちろん舞台に集中していたからではない。
彼女とのやり取りで光太郎は年甲斐もなく気持ちがすっかり舞い上がり、せっかくの右陣演じる「楊貴妃」もうわの空で気づけば終演していた次第であった。
しかし光太郎は更にもっと大切なことに気づいた。
自分の名前も連絡先も件の女性に伝えてなかったのだ。
慌てて立ち上がり周りを見渡したが多くの帰り客でごった返す境内に彼女の姿など見つかるはずはなかった。
名前も連絡先も知らない男からの誘いに乗る女性などいるわけない。
若いころからそれなりに遊んできたつもりだがナンパだけは一度もしたことがなかった。
そんなやり慣れないことを還暦近くになってするからだ、光太郎は恥ずかしさと滑稽な自分に思わず苦笑いするほかなかった。
それでも、スマホには7月8日、13時、称名寺と打ち込んである...
これは春と夏、二つの季節に挟まれた晩に現われた幽玄と現実を繋ぐ夢の浮橋なのかもしれない...そしてその橋を渡ってきた楓の精霊が自分の前に現れたのだ。
光太郎はそんなふうに思いながら帰り客でごった返す称名寺を後に、金沢文庫の駅へ向かった。
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